2017825

 

 韓国外交補佐官の尹文宮(イ・ムンクン)は北韓――《北》にいた。薄汚い道を、韓国の国産自動車が走る。外の様子は、いかにも閑散としていて、果たしてここが自分の国の隣なのかと疑いたくなる。食糧不足は、たとえソ連などの援助があったとしても深刻なようだ。自らが認めていない国に外交官が赴くのも変な話だが、今回の会談は非公開なので問題が無い。

 彼には重大な使命が与えられていた。戦前韓国は、アメリカの庇護下において《北》と対立していたのだ。冷戦中は、ソ連とも対立していた。冷戦が終わってからの対ソ関係は良好で、T80戦車を輸入したりもしていた。そしてそれは、現在もあまり変わらない。流石に韓国は“西側”国家なので、兵器の輸入は無理だが、戦争までは発展していない。

 だが、在韓米軍が引き上げたことは大きな問題だった。今までは、在韓米軍もあわせた対《北》政策を取っていたが、それも無くなり、しかも《北》をソ連と中共が援助したことにより、戦力のバランスが崩れてしまったのだ。韓国陸軍は精強で、海兵隊も優秀。空軍も海軍も弱くは無かったが、いろいろな面で弱体化は否めなかった。

 米国から輸入するはずのF15は(資金不足で)定数を満たせなかったし、新規に造船したイージス艦も、思ったほどの能力を発揮しなかった(そもそもイージス艦は、一隻あれば良いというわけではないのだ。日本やアメリカのように艦隊で使ってこそ、真価を発揮できる)。パトリオット導入や原潜計画においては、存在自体が(人々の記憶からすら)抹消されようとしていた。

 それも、《北》の攻撃で多くの被害を受けたことが影響している。事実上の援軍派遣に対するお礼として日本に支払った援助金(韓国の援護で日本が使った全ての消耗兵器よりもずっと多い金額だった)も、重荷になっていた。

 だから、今《北》が韓国に攻撃を仕掛けてきた場合、七十年以上にわたる悲願が、最悪な形で実現される可能性すらある。勿論、援軍を頼めば日本などは手を貸してくれるかもしれないが、民族としての誇りがそれを許さないし、また金を要求されるに決まっている。日本は、絶対に無償で動いてはくれないのだ。三回目の世界大戦は、日本をそのような国家に変えてしまっていた。

 その最悪の結末を防ぐ為、彼は動いていた。何をするか具体的に言えば、《北》との間に条約のようなものを締結するのだ。内容は勿論、中立条約。国家として認めていないくせに虫のいい話だが、もちろん無償ではない。五十万トンまでの食糧支援は、条約締結取引の交換条件として提案することが認められている。

 これは、国家存亡に関わる重要な任務だった。故に、彼の意気込みの高さもよく分かるだろう。

 

「はぁ……」

 だが、彼には自信があるわけではなかった。無論、出来るだけ善処はするつもりだったが、ソ連と中共という強力な後ろ楯を持った《北》は、かなりの強気で来ることが予想出来た。おそらく、決裂するだろう。食料は彼らも欲しいだろうが、ソ連と中共は食糧援助を約束しているそうじゃないか。

 彼がため息をついたのも、仕方の無いことだった。それに、彼の思いは考えすぎでもあった。確かにソ連と中共は《北》に食糧支援を約束したが、それはけっして《北》の地の底よりも深くに落ち込んでいる食糧事情を回復できる量ではなかった。加えて、たとえ食料の支援があったとしても、その多くは現在の偉大なる指導者の懐か、(大戦で大量に消費された)戦時備蓄食料に回されるのだから。つまるところ、《北》という国は今現在の体勢で行くと、いくら食料があっても満足することは不可能なのだ。

しかし彼の不安は、意外な方向で解消されることとなった。

「あれ?」

韓国人運転手が声を上げる。まだ若い、青年だ。顔立ちは面長で、顎は尖っており、切れ目。いかにも民族的な顔をしている。

「どうしたんだ?」

「いえ……その。パンクしたようなんですよ」

 運転手は不思議そうに言って、車を停止させる。道の両脇は森だ。間も無く目的地だというのに、いったいどうしたというのだ。

「ちょっと、見てみますね」

 運転手はそういうと、車を降りて右前輪に取り付く。尹はそれをちらりと見た後、座席の背もたれに体を預けた。静かな時間がもらえたのはありがたい。少し、考えさせてもらおう。そう思って、目を瞑る。はぁ、まだ会談も始まっていないうというのに、どうしてこんなに疲れているのだろう?

 どのくらい時間がたったか。実際には五分ほどだろうが、彼には一時間にも感じられた。だが、少し心が休まったような気もした。これなら、多少のことでは動揺しないだろう。さぁ、《北》の誰だろうと言論戦をしようではないか!

「終わっ――!?」

 しかし、眼を開けた彼が見たものは、タイヤを替えるだけで済みそうです、とにこやかに言う運転手ではなかった。完全武装をした、特殊部隊員と思しき人物だった。体を完全に覆う戦闘服を着て、手には銃を持っている。銃の種類までは、彼の知識では分からなかった。

「な、何だね、君たちは!」

 彼の叫びは、完全に無視された。彼らは無駄なく車の鍵をライフルで撃ちぬき、強引にこじ開ける。中の尹に当たらないよう、上手に撃っている。ドアを開くと、中の尹を引き摺り下ろす。だが、怪我をしないよう気遣ってくれてはいる。

 引きずり出された尹は、運転手が銃を突きつけられ、地面に膝を着いて頭の後ろで手を組まされているのを見た。半ば想像のついたことだった。いったいこいつらは何なんだ。尹がそう思っていると、尹の近くにいた男がヘルメットのスイッチを入れた。外部スピーカーのスイッチだった。

「尹文宮ですね」

 先スイッチを触った、おそらくリーダー格と思われる男が言った。スピーカーを通しているような声だ。訛りのある朝鮮語だった。

「そうだが、君たちは何だ」

尹は言い返す。

「JSSDFです。貴方を拘束させていただきますので」

 それだけ言うと、男達は尹と運転手に立ち上がるように指示する。そしてそのまま、森の中に連れ込んだ。尹と運転手は、抵抗も出来ぬまま、引っ張られていった。

 

 

 

 

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