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2017年 9月22日
ハノイに立ち並ぶ背の低いビル群は、自身の色を空色に染めていた。太陽光線を反射する無数の四角い(あるいはやや湾曲した)ガラス群は、朝の日差しを反射して地表に容赦なく叩きつける。本来ならば、とてもではないが動物が存在するには適してなどいない空間。
しかしながら、そこには無数の人間がいた。その多くは出勤の為、オフィスに向けて歩くサラリーマン・OLたちだった。誰もが無愛想な表情を作り、苛酷な環境の中、黙々と職場に向かって歩く。もちろん、(多くの公共輸送機関利用を進めるキャンペーン実施にもかかわらず)道路は渋滞している。一昔前なら“日本的”と表現されたであろう光景は、いまや、たいていのアジア諸国の、都市部の標準的な光景となっていた。
だがその都市の傍らに、静寂を保っている場所があった。日本大使館から都心部と反対方向に数キロ進んだ場所にあるいささか古びた建物……第4小隊が基地として借りている建物だった。
もともとこの建物を日本のとある企業が購入したのは、戦中の話だった。第三次世界大戦の初期、つまりソ連が自信満々に北海道に侵攻してきた時日本政府は、防衛庁情報本部(当時)の活躍により、中共がヴェトナムに対する侵略を計画していることを探り出した(もっとも、米国からの情報だという話もある)。
日本政府はその中共越南侵略に備え、ヴェトナム内に情報収集本部を設けることにしたのだった。戦時だからこそ許される、防衛組織の独断的な行動だった。この建物の改造に当たって、およそ趣味的な隠蔽工作が施されたのも、その為だった。もっとも、実際に越南侵略が開始されたとき、日本は完全に樺太に対して全神経を集中していた為、この建物が効果を発揮することはほとんどなかった。
そして今、その建物地下に設けられた隠し部屋には、いささかだらけた調子の一団がいた。無論、彼らは第4小隊の隊員たちである。学校の会議室に置いてあるような(まさにそれそのものなのだが)スティール椅子が大量に置いてあり、どう贔屓目に見ても座り心地が良いことはありえないだろう椅子に気持ち良さそうに座っている。上もしくは下を向き、舟を漕いでいる者もいる。流石に口の端から涎を垂らしているような奴はいないが、それでも、特殊部隊隊員にしてはだらしないように見える。
仕方の無いことだった。彼らは早朝から激しい作戦を決行しており、今帰ってきたばかりなのだ。怪我人こそ一人もいなかったが、体力を激しく消耗したことには違いない。
「ん……あぁ……」
哲也は体を椅子の背もたれから起こすと、大きく伸びをした。ArMSは脱いだものの、中に着る黒い体にピッタリとした着心地が良いとは言いにくい服はそのままなので、体の節々が痛い。もっともその痛みは、椅子に座って無理のある体勢で居眠りをしていたことにも原因があったが(むしろそっちの方が大きかった)。
「起きたか」
素雪は哲也に声をかけた。彼自身は、哲也と同じ恰好はしているが、ちゃんと椅子に座っている。
「ああ。どのくらい経った?」
「三十分も経ってない」
「お前は寝なくていいのか?」
「もう寝たよ。十分くらいだけど」
哲也は、ああそうかと言うと、椅子にしっかりと腰かけ、ふぅと息を吐いた。彼らのように特殊部隊訓練を受けたような人間は、どんな場所でもそれなりに快適に寝ることが出来る。特殊部隊採用試験もしくは訓練で、特殊部隊訓練生たちがよく寝場所に指定されるのは、ジープやトラックの中だからだ。いかなる場所でも、いかなる体勢でも休息できるよう、体に覚えこませているのだ。
ちなみに言うと、人は十分ほど寝れば、ある程度からだの疲れを取ることが出来る。これは、学校の授業中に居眠りをしたことのある人間なら理解できることだ。退屈な授業の中でも、ほんの二、三分舟を漕ぐだけで、眠気は取れてしまうものだ。
「そうか。てか、俺たち三十分もここにいるわけだ」
哲也は少し不満そうに言った。作戦を成功させた功労者に対しては、あんまりの扱いじゃないか。そういうことが言いたかったのだ。おまけに、敵の捕虜まで取ったのだ。その捕虜は、流石に体力の消耗が激しく口の聞ける状態ではないが、それも時間が解決してくれる。
「休ませてくれてるんじゃないのか?」
「それなら、さっさと解散して、ホテルに戻って休みたいよ」
哲也は呆れたように言った。素雪は、確かにそうだなと納得した。
「何か思うところがあるんじゃないのか?」
「だといいがな。……おっと、噂をすれば影、だな」
哲也は言うと、前を指差した。扉が開き、ターネス三佐が部下を一人引き連れて入ってきた。室内にいる全員が――先まで寝ていた者も含めて――顔を上げた。ターネス三佐は前にある教卓のような台に立つ。
「さて、早速だが問題が起きた」
「本当に早速だな……」
哲也が聞こえないように呟いた。……はずなのだが、何故かターネス三佐は哲也のほうをじろりと睨む。あの人、常識を逸脱した地獄耳だな。たじろぐ哲也を見ながら素雪は、本当に誰にも聞こえないよう、心の中で呟いた。
「この地図を見てくれ。ハノイだ」
ターネスはそう言うと、映写機(日本製のホームシアター)のスイッチを入れた。後ろの白いスクリーンにスライドが映される。もちろんそこには、ハノイの地図が描かれている。十一区から成る大ハノイではなく、首都部だけ四区の、本当の意味のハノイだ。
ハノイの歴史はそれなりに古く、世界史の表舞台に現れるのは一〇一〇年に李王朝の首都になった時だ(町としての歴史は、当然さらに古い)。十九世紀、越南王国が首都をフエに移すまで、文化と教育の中心であった。フランスの植民地時代は総督府が置かれ、当時の建物もたくさん残っている。いや、残っていた。
フランス人たちが建てた大聖堂やその他の西洋建築は、今現在、壊された為に復旧作業が進んでいる。もちろん、ヴェトナム人たちが壊したわけではない。彼らはどこかの半島の住民のような、宗主国が莫大な国費を払って当時は後進的だった地域に建てた建物を莫迦にすることはなかった(無論、多少面白からぬ気持ちを抱くことはあっただろう)。散々莫迦にした挙句、結局末永く使い、最後には過去の間違った考えを打ち砕くなどという理由をつけて取り壊したりなどしないことは言うまでもない。
ハノイに存在した多くの西洋建築を破壊したのは、一時的にこの都市を占領した中共の人民解放軍だった。後方からの命令か、はたまた現場の判断か(おそらく前者であろう)は分からないが、彼らは、かつてアロー戦争のころフランス人とイギリス人の手によって破壊された円明園の復讐をするが如く、フランス人の作った西洋建築を破壊した。
もちろん、人民解放軍が破壊したのは西洋建築だけではない。都市でのゲリラ戦イコール鏖殺である、いかにも共産圏的な軍隊を保有する中共が、ハノイを占領しようと行った市街戦も、その原則に外れないものであった。要するに、戦車すら持ち込んだ人民解放軍がハノイで暴れまわったということである。都市が滅茶苦茶にならないわけがなかった。いや、“滅茶苦茶”などという形容詞では及びつかないほどの被害であった。
そんなわけだから、今現在ハノイに存在する建物や道路の多くは、戦後になって建てられたものだった。建てたのは、中華民国本国企業と外国企業で比率が一対三ほど、もちろん主な外国企業は日本企業である。かつては危険な地域に対する展開を勤めて控えていた日本企業だが、戦後は、自衛隊と共に危険な地域でも展開するような、よく言えば活力的、悪く言えば凶暴な性格に変化していた。
だから、今のハノイは戦前のハノイとはまるでといっていいほど違う。都心部では特にそうだった。道路の配置すら変化していたからだ。それはハノイがどれほど破壊されていたか示す基準でもあるのだが、戦後ハノイの復興が順調に進んだ理由を示すものでもあった。ほとんど更地だったから、非常に計画的な都市を作り直すことが出来たのだ。
そんなハノイだから、見た目は綺麗な町だった。曲線と直線が規則的に組み合わさった機能美を備えた都市だ。都市の端の方に行けば、戦前からの市街地も大量に残っているが、中心部には、それはほとんどない。
「さて、米国の中央情報局と情報調査庁、あと、自治政府からの情報なのだが……」
全員の視線がスクリーンに注がれたことを確認された後、ターネスは言った。
「敵――今朝、お前らが討伐した奴らだ――の残党が、ハノイに大規模テロを計画していることが判明した。我々は自治政府の戦力に協力し、これを討伐する。この時点で質問は」
当然だが、結構な数の手が挙がった。素雪と哲也も手を挙げている。
「じゃあ、順番に訊いておこうか。哲也」
「はい」
哲也は、教師に当てられた小学生よろしく立ち上がる。素雪は一瞬制止するようなそぶりを見せたが、すぐに、諦めたように止めた。
「えーとですね。我々がその残党……ってかテロリストを退治する理由は?」
一見、何を今更な質問だが、考えてみれば尤もな質問だった。第4小隊がこの国のこの場所でテロリストを退治したのは日本国に対する危険を排除する為であり、それが日本国に対する明確な危機になったのではないなら――つまりこの場所テロを起こすようなものなら――わざわざ第4小隊がこれを討伐する謂れは無い。
残酷なようだが、ターネスが第4小隊に命じたことは、任務から逸脱した行為と呼びうるのだ。
「理由は二つある」
ターネスは言った。
「まず、このテロリストの将来性だ。こいつらがここのテロで成功して自信を付けた場合、次は上海や香港、その次は東京……、となりかねん。二つ目は、もっと直接的な理由だ。自治政府が援助を要請している。対中関係を考え、これを受けるんだ。よろしいか?」
「はい」
哲也はターネスの言葉に納得してみせる。
もちろん、ターネスが言っていることは、戦前の自衛隊の存在並みに詭弁に満ちている。テロリストの将来性といっても、所詮は残党の寄せ集まりにすぎない。たとえこの場でテロに成功したとしても、その先東京に、いや、それどころか上海や香港にすらテロなど出来ないだろう。中国のカウンター・テロ能力は、テロによる攻撃を得意とする中共を敵として抱えているので、けっして低くない。状況がそれを強要する。
そして自治政府の要請だが、そんなもの、契約違反です、で切り捨ててしまえばいいことだ。秘密作戦を公表するぞと迫られれば、もっと別の脅しを加えればよい。中国から派遣部隊を引き上げる、中国内での治安維持活動支援を停止する、なんでもいい。中国は、自国の治安維持活動の多くを日本の手を借りて行っているからだ(日本は見返りとして関税の引き下げや一部資源の譲渡などを受けている。また、自衛隊員の練度向上にも役立っている)。
だが、感情的にはこの要請は断りがたい。
以前にも述べたが、自衛隊員で特殊部隊員といえども人間だ。自分たちが行った行動で他人が被害を受けるのを容認できるような人間ばかりではない(もっともそれは、人間としては良識と呼びうるが)。
ならば、隊員たちの精神状態も考慮し、中国に恩を売ることと自国の安全を事前に確保することを表向きの目的として、テロリストを討伐してもいいのではないか。ターネスはそれにイエスと答えたのだ。
もちろん、哲也や他の多くの隊員も、それを分かっていた。その程度が理解できないような人間を、自衛隊は特殊部隊に採用することはない。つまり、行動理由を明確にする為、質問をして見せたにすぎない。回りくどい方法だが、誰の権威も傷つけぬよう、作戦会議などでは頻出される手法だ。気の利く部下を持つと上司は楽できる、ということだろう。
「他には」
ターネスは、視線で哲也にご苦労と告げると、他の、まともな質問を受けた。先より少ない数のメンバーが手を挙げる。
「吾妻」
「はい」吾妻はターネスに当てられ、立ち上がる。
「テロリストの残党狩りをするのはいいですけど、具体的には?」
「ああ、説明しよう」
ターネスは頷くと、隣に控えていた副官に合図をする。副官は手元のノートパソコンを操作し、後ろのスクリーンに移った地図に別の図を付け加える。いろいろな線が町中を走っているような図だ。
「テロリストの残党は存在するが、町の住民を避難させるわけにはいかん。ハノイの経済に与えるダメージが大きすぎる」
ターネスは隊員たちの反応を確かめてから、続ける。予想どおり、全員が納得したような顔をしていた。
「よって我々は、出来る限り住民に気付かれないようにテロリストを排除することになる」
再び反応を確認する。予想どおり、全員が唖然とした表情をしている。
「さて、質問は?」
ほぼ全員が手を挙げた。やはり予想どおりだった。
「大和」
「あの、抽象的な質問になりますが、住民が山ほどいる中で、どのようにテロリストを駆逐しましょうか? いえ、期間が月単位であればいいのですが、今日昨日のレベルでの話であれば訊かせていただきます。具体的な質問で行くと、どのように住人の中からテロリストを見つけ出し、どのように住民に気付かれずテロリストを退治すればいいでしょう?」
大和は至極丁寧な口調で訊いた。しかし、その内容は非常に辛辣なものだった。その言葉は、要するにあんたの言うことは不可能だといっているわけだ。上官に刃向かうに等しい行為だった。
大和は大卒で自衛隊に入ったが、幹部ではなく隊員としてだった。その後も、レンジャー試験に一発で合格したり、冬季戦闘技能教育を受けたり、空挺に入団したり、各種特技徽章を持っていたりと偉業とも言うべき能力を発揮しながら、その昇進や評価は揮わぬものだった。
だが、その理由がこれだった。要するに彼は、他人に対してハッキリとモノを言いすぎるのだ。それが上司だろうと部下だろうとお構いなしに。裏を返せば良いところはきっちりと褒める正確なのだが、真意をオブラートに包んで後ろ手に渡すような日本的な自衛隊において、それは上司からの受けが悪く、だから能力に見合った昇進や評価が得られなかったのだ。
特別自衛隊が出来た時、彼が直ぐに志願したのもそれが理由だった。上司との関係が最悪になっていたのだ。
「いい質問だ」
だがターネスは、そんなことを気にした様子もなく言った。正味な話、彼の部下、つまり第4小隊の面々は、能力重視でかき集めてきたにすぎない。そしてその際、祖国への忠誠心以外、大した精神規定は設けられていなかったため、愚連隊的な性質が強い。
ターネスはそんな者たちを纏めてきたのだから、ちょっとやそっとの無礼には慣れっこだった。
「だが、もう一度言おう。我々は『出来る限り』住民に気付かれないようやる必要がある。もちろん、不可能ならば仕方が無い」
人間の心理というものはなかなか面白いな。ターネスは言い終えた後、部下たちの顔を見回して思った。全員、納得したが不満は残るという顔をしていた。
「あの、すいません」
「何だ、哲也」
「いえ、出来る限りなのはいいんですけど。もし住民に気付かれた騒ぎになった場合、こことの関係が悪化するんじゃないですかね?」
哲也は言った。
考えてみれば、相手のほうが頼んできたのに、多少の(そう、多少の)失敗で関係を悪化させられては……つまり勝手に怒られてはたまらない。しかし、常に正論が通るわけではないのだ。そういうことは、この場にいる誰もが承知していた。
「まぁそうだが、致し方ない。それに、相手方だって、自分たちが言っていることが如何に無茶かくらい承知しているはずだ。そんな無理やりなことは言ってこないと思うが……」
ターネスは自信無く言った。だが、どうすることも出来なかったのであろう。
「もちろん、可能な限り条件は整える。テロリストの残党の居場所は判明しているし、規模なんかも大体つかめている。自治政府が雇った傭兵も(彼らは市街戦に慣れているらしい)協力してくれるし、ここの警察特殊部隊も出動させてくれるそうだ」
次に、弁解するように言う。だが、心強い言葉でもあった。傭兵云々はともかく、規模と場所が判っていることはありがたい。それだけで、成功率はかなり上昇するのだ。また、敵が固まっているらしいこともありがたかった。一箇所にいる敵を包囲殲滅するのは容易いからだ。こちらが、敵の何倍もの兵力を使える状況であればなおさら。
「では、作戦は十三時より開始する。情報によれば、敵はちょうど二十時前後に活動を始めるらしいから、一番油断している時間帯だな。諸君、少し休んでくれ。この建物の中ならば自由行動を許そう」
ターネスがそう言い副官と退室すると、全員がその後を追うように部屋を出た。建物内の自由行動。この建物はコンクリート三階建ての堅固な建物だが、広さは意外とある。要塞構造にはなっていないのだ。
建物内はゆったりとした造りになっている。高さは無いが、敷地面積は広めだからだ。当時、まだヴェトナムの地価が低かった時代に建てられたものだからだ。もっとも、建てられた当時は日系企業の支店であったが。
現在、外装こそくすんだねずみ色だが、内装は完全に改められていた。中華民国南部の情報収集の中核本部となるべく、仮眠室や食堂、そしてこういう風なシェルターを設けている。最大で二〇〇人以上が寝食出来るような場所なのだ。戦前の計画では、さらに要塞化も計画していたらしい。今回の任務でその有用性が認められれば、その計画も復活するかもしれない。
素雪は、その建物の中の休憩室にいた。仮眠室の隣に位置するその部屋は二、三十人入れる余裕があり、ソファーが幾つか置いてある。テレビも置いてあるが、テレビは衛星放送が使えないので見たって面白くはない。調度品としては観葉植物だけで、絵画や壷などは一切無い。コンクリートの地肌そのままの壁と相まって、非常に殺風景だ。素雪はソファーに座っている。
「お疲れ」
素雪の隣に腰を下ろした哲也は言った。
「ああ、疲れたな」
素雪は表情と言葉の内容を一致させていった。
「だが、まだ疲れる必要がある」
「そうだったな」
素雪は時間を確認した。午前六時。作戦開始時刻までは七時間。起きて直ぐ作戦などやめたほうがいいから、二時間前には目覚めて準備運動(ウォーミングアップ)と緊張の維持をしたほうが良い。出来れば三時間前には起きておきたい。
別に起きて直ぐの戦闘も不可能ではないのだ。事実、素雪や哲也が戦場にいたときは、敵の奇襲で起こされすぐさま戦闘などざらにあった。
それに、一般的に考えるなら、素雪の考える後者はおかしいようにも思える。わざわざ自分の体を緊張状態に置こうというのだ。
しかし、軍隊においてはこの考えは非常に一般的だ。軍隊での合言葉は“急いで待て”、つまり緊張を維持せねばならないのだ。
軍隊とは、例えば長い戦争をしていても、実際に戦闘を行う時間は非常に短い。それも、現代戦となるとなおさらだ(一例を挙げれば、現代の市街戦の平均継続時間は五分を切る)。だから、戦争をしているような場合でも、部隊が戦闘に投入されることはあまりないのだ。あったとしても、投入される間隔はどうしてもあく。この時に、精神の弛緩というものが発生する。
この緊張感がなくなるというのは、戦争においては非常に不味い。いや、戦争に限らない。例えば野球やサッカーの試合を想像してみればいい。人間は適度な緊張感があるからこそ頑張れるのであり。だらけた状態では実力の九十九パーセント程度しか発揮することは出来ない。
だからこそ“急いで待て”。待ち時間も何かしらの手段を用いて急かし、緊張感を維持させるのだ。
素雪が考えたのも、だいたいこれと同じようなものだった。要は、仕事を忘れない程度に休もうということだ。がぶ飲みはダメだが、御猪口にいっぱいなめる程度ならかまわない、そういうことだった。
「しかし、異常じゃないか、この事態」
「何がだ?」
「だって、一日に二回も作戦に駆り出されるんだぞ。特殊部隊が。それも、平時で」
「ああ」
素雪は納得した顔を作った。確かに異常だと思った。普通、特殊部隊とは貴重なものだ。育成に物凄い金額と時間がかかる。例えば空母と護衛艦から成る機動部隊を一個動かすよりはずっと安いが、それでも、国家にとって重要なものであることは間違いない。だからこそ、しばしば特殊部隊の所有数と練度はその国の、軍事力の評価基準の一つとされるのだ(未だにアメリカが世界最強の国家である理由は、必ずしも世界で最も多くの空母を保有していることだけが理由ではない。英国の軍事力が未だに無視できないのも同様の理由だ)。
もちろんこれは、戦時となれば話は変わる。いくら精鋭一個大隊の特殊部隊でも、一個師団の敵に勝てはしない。だが、一個旅団の味方がそれに勝利する為の下地作りをすることは出来る。いや、それ以前に、戦争自体を起こさないために活躍もするのだ。
だからこそ、大切に使用される。そんな特殊部隊を、こんなに過度に使用するのはナンセンスとしか言い様が無い。原因があるとすればそれは……。
「もう直ぐ追加人員が送られてくると聞くが……」
「速く来て欲しいな」
人員の不足。それしかありえない。現在日本の特殊部隊は幾つかあるが、そのうち海外で派手な活動が出来るのは第11連隊第4小隊のみだ。陸自のSOGなどは海外での充分な運用能力を備えていない。自衛隊の敵は、何時の時代も人員不足なのか。
「何人くらい来るんだ?」
「確か……少なくとも十人は来るはずだ」
十人……、と哲也は呟く。あまりにも少なかった。いくら少数精鋭とはいえ、これはあんまりだ。
「少なくとも、だろう」
「大和か」
いつの間にか哲也の近くに腰を下ろしていた大和が言った。肩には毛布を羽織っている。隣の仮眠室から持ってきたのだろう。
「俺が聞いた話では、1から3小隊は充填されるらしいぞ。運がよければ5と6、いや、それ以上に人員が増えるらしい。陸自のレンジャーから人員が融通してもらえるらしい。空挺からも」
陸自のレンジャーというのは、陸上自衛隊員でレンジャー徽章を持っている者の者のことだ。陸自にはレンジャー部隊は存在しない。ちなみに、先述したように大和もレンジャー徽章を持っている。空挺は、第1特別師団第1空挺旅団のことだ。優秀なことで有名で(これは、空挺部隊としては当然だが)、しばしば特殊部隊と同列に扱われる。大和はこっちにも所属していた。
「どうだかな……まぁ、今の状況からは開放されるんだろうが」
「そう悲観するな、哲也」
「悲観じゃぁないがなぁ」
哲也は頭を掻く。
「たとえ人員が入ってきても、そいつらが事務や情報収集の仕事が出来なきゃ意味が無いと思うがな」
横から素雪が言った。毛布の中で、ほとんど眠っているような状態なので、どうにもやる気が感じられない。
「ああ、なるほど。確かにな」
「まぁ、な。陸自の特殊部隊からなら、そっち方面は微妙だなぁ……」
大和と哲也は納得したように唸った。
実際、今のところ第4小隊の主な任務は、テロリストのアジト急襲でも、非友好国に忍び込んでの不正規活動(非正規活動と書くのと、日本語的にどっちが正しいのだろう?)でもなく、机仕事と情報収集活動だった。そのいかにも怪しげな情報収集活動にしたって、モスクワや北京に忍び込んで政府高官を拷問したり、色っぽいポーズを取って政府高官を誘拐したりの方ではなく、難しいほうでも国内に潜んでいるそっち方面と繋がっている政治家や幹部自衛官を見つけ出すようなことにすぎない。簡単なものになると、各自衛隊駐屯地の接客状況や隊員の実態調査を行ったりする。これらは、「将来情報管理任務に就く場合の訓練だ」と説明されているのだが、隊員たちはそんなこと一片も信じてはいなかった。
仕方のないことだった。これらはどう考えても、雑務にしか見えない。しかも、適度の機密性の高い、という形容詞の付いた。
要するに、彼らが安寧を手に出来る確立は限りなく低い、と言う話だった。有能な特殊部隊員の扱いにしては、あんまりじゃないか。第4小隊員の多くは当然のようにそう思っていたが、それでもなお、この部隊を嫌っている様子は無かった。
素雪たちはいい加減に気分が重くなってきたので、さっさと休むことにした。隣の仮眠室に移動して、空いているベッドを適当に使わせてもらう。支給品の拳銃を(今の自衛隊は下級幹部――一般的に言う下士官にも拳銃を支給しているのだ)枕の下に入れ、横になった。あまり使われた形跡の無い仮眠室だったが、管理は行き届いており、埃などはほとんど落ちていなかった。
「P228ってなんとなく不安だよな」
三階建てベッドの一番上に陣取る哲也が、中間にいる素雪に声をかけてくる。支給品の拳銃の話だ。
「そうか? 別に九ミリでも充分だと思うが……」
自衛隊の現在の正式採用拳銃は、P220、P226そしてP228だ。全てドイツのシグ・ザウエル社製の物を日本のミネベア社でライセンスしたものだった。シグ・ザウエル社はドイツの会社だが、どの拳銃も設計はスイスだった。日本は幹部用拳銃をコルトM1911.45口径拳銃<ガヴァメント>からシグ・ザウエルP220に交換した時から、自衛隊の正式採用拳銃にずっとシグ・ザウエル社の拳銃を使い続けている。精度が良く使いやすいが高価だという評価の下されている銃だが、どうせ国産するんなら高くなってしまうから、良い物を作ったほうがいいので、間違った選択ではないだろう。
一つ問題視されたのは、最初に採用したP220拳銃はシングルカラムマガジンなので、装弾数がたった九発しかなかったことだ。これは、大柄なダブルカラムマガジンのグリップよりも握りやすいシングルカラムマガジンの方が日本人の体格に合っていた点と、どうせ大した用途の無い拳銃に多弾数を求めても意味が無いという点で無問題にされたといわれている。
しかしながら戦後、やはり装弾数が多いほうが頼もしいと言う戦争経験者の意見もあり、自衛隊はP220とP226を併用することにしたのだ。ただし、一部の特殊部隊員にはクルツモデルのP228も支給されている。哲也や素雪が持っていたものがそれだった。
「そうかもしれんが……。防弾チョッキを貫通できないだろ?」
「アサルトライフルを使えばいいじゃないか」
「無理な場合もあるだろ」
素雪はふぅむと唸った。
「じゃあ、FN<Five−seveN>でも導入してもらうか? 貫通力があるぞ?」
「いいね。でもそれなら、P90も導入しないとな」
FN<Five−seveN>ピストルとは、ベルギーのFN社が開発した新型拳銃だった。P90サブマシンガン(本来は自衛火器として開発されたが、その分類が普及しなかった為、サブマシンガンに分類されている)とコンビになっており、貫通力の高い五・七ミリ×二八、SS190弾を使用する。これはライフル弾を短くしたような弾丸で、レベル4までの防弾チョッキを貫通可能だ。一応、自衛隊でも一部の部隊で実験的に使用しているが、導入には至っていない。
「P90か……。室内では使えそうだが……」
「屋外では使い難いらしいぞ。まぁ、インドアなら心強いだろうが」
素雪は多少うとうとしてきた頭で銃器に関する知識を引っ張り出す。哲也も同様らしい。
二人が眠りに就いたのはそれから少し後だった。
『ナラシノ〇二。準備完了』
『ナラシノ〇三、配置に着きました』
「こちらナラシノ〇一、了解。その場で待機」
一三時二十分、第4小隊と現地警察特殊部隊は、突入準備を完了していた。現場到着からたった十分での拠点確保。充分に高い練度と言えた。
テロリスト残党の潜伏場所は、ハノイ市内にあるオフィスビルだった。公式記録ではどこかの中小企業の持ち物となっていたが、その中小企業はテロリストのカヴァー企業だった。そのテロ組織自体が崩壊した今は、残党の潜伏先になっているということだ。
一度崩壊した組織のカヴァー企業のオフィスなど、残党からすれば危ないこと限りないのだが、彼らにはここくらいしか逃れる場所がなかったのだろう。
ちなみに何故危ないかと言えば、このオフィスの場所が割れた理由を考えればよく解る。このオフィスの場所は、テロ組織の前の潜伏地を捜索した際、関係書類を発見した末見つけたものだった。
場所が割れた後は、その後の調査も楽だった。壊滅したアジトに残された書類の中には、人員名簿も含まれていたからだ。死体にも識別票が付けられていたので、逃げたものたちは直ぐに判別できた。組織が大規模だからこそ、起こりえたことであった。
死体が見つからないメンバーは全部で四十七人。うち、八人は、昨日の内に投降するなり摑まるなりしていたから、この建物の中に潜伏しているのは三十九人ということになる。ただしターネス曰く、
「奴ら、ソ連の退役将校を顧問に雇っている。そいつらもいるかもしれんから、気を付けろ」
だそうだから、素人ばかり一個小隊などと気は抜けない。ソヴィエト顧問(教官一人に護衛数人で来たらしい)は、他のテロリストと違い、それなりに経験を積んでいるはずだからである。それにテロリストが雇うくらいなのだから、市街戦のプロフェッショナルなのだろう(ジャングルでの戦闘は彼らの領分なのだから)。
―――だが、一気に制圧すればそれで終わりだ。
素雪はそう思った。相手をなめているわけではないが、この人数――第4小隊三十名と現地警察特殊部隊二十名、それと周囲の包囲に傭兵五十名の計一〇〇名――の奇襲攻撃を所詮寄せ集めである敵テロリスト残党が凌げるとは思えない。
彼らの突入計画は、たった一日で計画されたにしては周到だった。ビルは五階建ての背の低いビルだが、両隣にも同じようなビルがある。よって、部隊は屋上、正面玄関及び隣接するビルから一斉に突入することになっている。SAS式の平均的な突撃方法だが、作戦とは単純化したほうが、成功率が高まる――つまり冗長性が上がるのだから、悪くはない。
ちなみに素雪は右隣のビル三階から窓を破壊して突入する。哲也は屋上から突入(屋上にはやっぱり隣のビルから乗り移る。場所が場所なので、ヘリが使えないのだ)、大和も屋上からだった。吾妻は左側突入班の総指揮を担当している。地元警察部隊は全部隊が正面玄関だった。
第4小隊の練度については疑うべくも無いし、現地警察とはいえ、テロリストがうじゃうじゃいるような地方の特殊部隊だ。これだけの精鋭に囲まれたテロリストに、逃げ延びる術などありえないだろう。
問題はただ一つ。計画と言うものが、例外なく混乱し、支障をきたすものだということだけだった。
最初に問題が起こったのは、突入前の数分前だった。
サーモグラフィー及び集音器を使用して内部の様子を探っていたところ、敵が建物内でばらばらに行動していることがわかったのだ。これは非常に厄介なことになる。各個撃破できる、と考えれば都合がいいかもしれないが、この場合だと、どちらかと言えば時間がかかるばかりだ。その上、余程上手に包囲網を作らねば、最悪逃げられてしまうかもしれない。とはいえ、今回の包囲網から逃げられるとは思えないが。
以上のような問題はあったが、作戦は続行された。もともと軍事作戦とは、冗長性を充分以上に持たせてある(今回投入する人数が異常に多いのもそういう理由だ)。
「突入!」
地上にいるターネスの声が響いた。彼は、少し離れた位置で指揮に専念している。流石にこれだけの人数を操るとなると、自身も作戦活動に参加しながら、とは行かないのだ。もっとも、今まで彼が作戦に参加しながら指揮を行っていたのは、何れの作戦も敵地でのものだったという理由もある(ジャングルはそこに住む人間以外にとって、等しく敵足り得る)。
が、今回は同盟国内のテロ組織討伐だ。通信は確保されているし、後方支援も問題ない。それに、人数も多い。そんな中では、戦闘をしながら指揮をするより、戦場から離れた場所で、無線で指揮をした方が逆に効率がいいのだ。人数が多い為、部下を幾つもの部隊に分け、それぞれ隊長をつけることも出来るから、即応性が下がるわけではない。
現に、突入の動作などは実に素早かった。
例えば右ビル三階から素雪が突入する際、前もって仕掛けておいた指向性爆薬でビルの壁を爆破した。壁の材質は超音波探査機で調べておいたので、手持ちの爆薬で充分に破壊可能と解っていた。
壁にあいた穴は直径一メートルほどだったが、訓練を積んだ素雪たちにとってはあっという間に潜り抜けられる大きさだった。彼らは十五秒足らずで全員がそこを通り抜けた。
同時に、屋上と反対側側面、そして正面からも突入する。建物の各所から、同時に、爆音と白煙が上がる。いや、正確には煙ではなく粉々に破壊された建材だったのだが、今その白煙を見ているものには、それがどちらであろうと関係なかった。
突入した人数は(先述したように)五十人。その内側面から二十人、屋上から十人、正面から二十人だった。側面の突入は左右あるのだから、片方の突入人数は十人になる。これだと正面からの突入人数が異常に多いように思えるが、正面からの突入部隊は全員が現地警察特殊部隊員なので、第4小隊員に比べると練度が低い。
突入後の動きは以下のようなものだった。
まず屋上から突入した部隊は、屋上付近で固まっていた敵の部屋に突入。対して抵抗もなく制圧した。その際、手に銃器を持っていた男を一名射殺したほかは、死傷者なし。逮捕者は八名。
右側面から突入した部隊は大した障害に出会うこともなく左側側面から突入したメンバーと合流。再び二手に分かれて上下に攻撃をかける。
正面から突入したメンバーは、正面玄関に張られたバリケードと衝突していた。このビルは、たいていの商業ビルのように一回のほとんどが玄関になっているから、正面玄関は広い。しかしながら、やはり定石から真ん中にインフォメーションセンターを置いているので、中ほどで急激に狭くなっている。
敵はこの部分にバリケードを張り、警察特殊部隊と銃撃戦を交えていた。言うまでもなく、警察の特殊部隊は普段銃撃戦など行わない。対してテロリストたちは、ジャングルで軍隊と銃撃戦を交えた者もいる。装備の点で見ても、警察特殊部隊がイスラエルのUZIサブマシンガンや一部H&KMP5A4なのに対し、テロリストたちはAK47アサルトライフルや最高RPG7対戦車ミサイルまで持ち込んでいた(もちろん、こんな場所で使えば前も後ろも大変なことになってしまうが)。
武器的にも経験的にも、テロリストの方がやや有利であった。しかしながら銃撃戦は、互いに遮蔽物に身を隠していたため、大した消耗もなく続いた。
正面玄関で警察特殊部隊とテロリストの一部が銃撃戦を続けている間、残りの三十人は上階の全てを制圧していた。残りは一階だけだった。
計画はここに綻びを見せた。
警察特殊部隊の隊長は、上階を味方が完全占拠したという報告を聞いたとき、二つの感情を覚えた。
安堵と、不安。
この一見対立するような感情が、彼の心中を占拠した。
安堵は、言うまでもなく味方が上階を占拠したおかげで、敵を挟撃することができるというもの。敵はどう考えても、前後両面から攻められて防ぎきれるような兵力は保有していない。
そして不安は、自分たちが何の手柄も上げられぬうちにこの作戦は終了してしまうのではないかというもの。
言を要さぬことだが、この場所の治安維持は彼らの管轄だ。彼らからしてみれば第4小隊は“余所者”であり、しかもその“余所者”が彼らを閑職に回したような形になっている(正面からの突入と言うのは、今の彼らにしてみれば閑職だった)。
彼らはこれを屈辱と受け取っていた。仕方の無いことだったのかもしれない。
隊長の心が動いたのは、一階に下りる階段に多数のトラップが仕掛けられているため、敵背面攻撃には時間がかかるというものだった。
今なら……。今敵を制圧すれば、正面の敵を単独で排除という手柄が得られるかもしれない……。
彼の考えは、ある意味で、ひどく時代遅れに思われるかもしれない。だが、現代においても“面子”や“プライド”は人心に絶対的な影響を及ぼす。そして警察や軍隊など、ある種の縦割り社会の形成される組織において、それは絶対的な価値をも有することとなる。部下の信頼は何よりも大切であり、そして実績を持つ上官を部下が信頼するのは当然だからだ。
故に、この時隊長が強襲を命じたのも、仕方ないことと言えた。そもそも、市街戦により熟れているであろう傭兵部隊が突入部隊に参加しなかったのは、そしてそれに取って代わって警察特殊部隊が突入部隊に組み込まれたのは、警察特殊部隊が自分たちの作戦参加を強固に主張したからだった。
彼はその権限を与えられているし、彼の部下もそれに従う義務があったのだ。惜しむべきは、その命令に対して責任を取るべき彼――隊長が、充分以上に備わっていた“勇気”というものに従い部下と共に突撃し、そして、七・六二ミリライフル弾を拳銃弾ほどしか防げない設計の防弾チョッキで守られた胸部に受け、苦しむ間を与えられずに死亡してしまった事であろう。責任者無き犠牲が大量に発生したのだった。
「莫迦な……」
警察特殊部隊隊長からの言葉を聞き、ターネスは絶句した。
敵を強襲。あの状態で。もう少し耐えれば味方が背後から攻撃するのに。
もちろんターネスにだって、隊長が何故強襲を行ったかくらい想像がついた。要するに、自分たちの面子が守りたかったのだろう。日本警察や自衛隊においても時々行われる、組織を腐敗させる要因の一つだ。
だが、状況が悪すぎた。もう少し耐えてもらえれば、敵を一網打尽に出来たのに、これでは逃げられてしまう。
「ちくしょう」
ターネスは小さく言った。隊長を恨んだ。第一、我々の存在は隠される。我々がどう動こうと、手柄は全てやつらのものになるというのに……。くそ。莫迦め……。
だが、ターネスは最善の策を尽くそうとした。素早く状況を把握した。
「状況はどうだ?」
『乱戦です』
班長の吾妻が直ちに返す。
『警察特殊部隊班長死亡。他のメンバーも十人近く死んでます。敵の部隊も結構死んでますが……。確実な人数は把握できません。間も無くトラップの解除が完了しますから……』
『失礼します』
吾妻とターネスの会話に、英語で誰かが割り込んできた。
「君は?」
『傭兵部隊の隊長、ラインです。顔合わせ、しましたよね』
「ああ、君か」
ターネスは即座に思い出した。作戦前のブリーフィングで顔を合わせた、ドイツ系の傭兵だった。なかなか賢そうな人物だなという印象があった。それと、素雪と知己らしい。
「何かな? 手短に頼む」
『テロリストたち、十数人が逃げ出しました。こっちでも何とか対応してますが、何しろ数が……』
「ああ、解ってる」
傭兵たちは五十人が展開している。本来ならば二〇〇人はいたのだが、こんな街中に傭兵を二〇〇人も展開させられないとの事で、五十人まで減らしたのだ。区画を隔離することも出来なかった。テロリストたちに気付かれれば骨だし、経済的な事情から、つまりまさしく発展真っ盛りというこの町の基盤であるサラリーマンたちの行動を阻害するのは、あまり宜しいことではない。
だがその国内事情に配慮した措置が、どうやら最悪の結果を招きそうだった。逃げ出したテロリストは十数人。それに対応する傭兵部隊は五十人。一人につき五人弱の人員が充てられるわけだが、どうだろうか? ゲリラ戦というのは、特殊部隊が行うという、どこかエリートっぽいイメージと反して、人数こそが全てだ。一個小隊のテロリスト(または工作員)を追い回すために、一個連隊が駆けずり回ることもある。事実、戦中の日本で、在日朝鮮人であった北朝鮮の工作員たち(一個小隊規模)を排除するのに西部方面普通科連隊を中心として西部方面普通科部隊総出動を行ったのだ。東京や大阪でも似たり寄ったりの事が起こった(この時に無関係の在日朝鮮人や韓国人、中国人が大量に殺されるという事件も起こったが、これは、戦争開始と同時に在日外国人を素早く隔離するなどの法整備を行っていなかったことが原因だ。もっとも、その法整備を妨げていたのは他ならない在日の人々だったのだから、自業自得と言わざるを得ない)。
「とにかく、出来る範囲で対応を。吾妻!」
『はい!』
「そっちの状況はどうだ?」
『トラップは間も無く解除……いえ、解除しました』
「直ちに応援に回れ。一階に残っている奴らは逮捕。警官隊は……応急処置を必要とするもの以外は放置」
『了解』
吾妻はそう言うと、通信を切った。ラインは既に通信を切って、任務を遂行していた。
何とかなればいいが。部下の通信要員が忙しなく各部隊と通信をしているのを横目に、ターネスは思った。
シュレン・ギーゼラ・カレンシュタインは独り、町を歩いていた。
一見すると、ただのOLのようにも見える。事実、彼女は新聞社の海外派遣要員として、この国に来ていたのだった。
彼女の勤務する新聞社は、彼女が籍を置く国の中でも、革新的な会社として知られていた。その新聞社が行ってきた中で特に有名なのが、過去に第三帝国と呼ばれていた欧州の国家の行為の再検討だった。
具体的に言えば、確かに我々があの時あの国で酷い扱いを受けていたことに違いは無いが、戦中であればむしろそれは厚遇とも取れる条件で、下級兵・指揮官の独断は別として、組織だった暴力を受けたわけではないのではないか、というようなことだった。
この新聞社がこれにまつわる記事を載せた時、国内世論が真っ二つに割れた。賛か否である。
この問題の難しさは、過去の資料が残っていないところにあった。例えばガス質やらで有名なアウシュビッツ強制収容所は、帝国降伏時、なんとソヴィエトの支配下にあったのだ。そして、建物が一般に公開されたのも、もっとずっと後になってからだった。
そしてさらに驚くべき問題を挙げれば、例えば有名なガス質は、非常に気密性の低いものだった。その上、構造上の欠陥も多々あった。
他にも、死体が見つからないなどの、根本的な原因もある。それに反論する場合、多くのものはこう言った。
「ナチが死体に火を放ったんだ!」
だが、例えば生き残って強制収容所を脱出した者から話を聞いた場合、彼らが語る「死体の燃やし方」はまちまちであり、しかも同じ者の証言であるにもかかわらず、言っていることが食い違うこともあった。
例を挙げれば、ある者は死体を深い穴に放り込み、灰になるまで燃やしたと言った。ある者は焼却炉に放り込んだと言った。
だが、常識で判断すれば判ることだが、これでは死体は燃えない。人間の体の大部分は水分であり、たとえ油分に引火したとしても、直ぐに消えてしまう。牛肉やら豚肉に火を着けるのを考えてみればいい。果たして燃えるだろうか?
また、深い穴の中で死体を燃やすなどナンセンスだ。火が燃えるのに何が必要だか考えてみれば、小学生でも理解できる。
これらの事実を突きつけると、多くの者がこう反論する。
「油を撒いて火を着けた!」
だか、これはさらにありえないことだろう。第三帝国は、大日本帝国は何故連合軍に負けたのだろうか? 人員が乏しかったから? それもある。先が見えていなかったから? そうとも言える。
だが最も大きな問題は、資源だ。ドイツにさらに資源があれば、メッサーシュミットMe262を量産できたかもしれない。燃料があれば、ティーゲルやパンテルをもっと動かせたかもしれない。
そんな中で、果たして無駄としかいえない用途に燃料を使えるだろうか? ガソリンは言うまでもなくガソリンエンジンの燃料だし、重油は船舶、軽油はディーゼルエンジンの燃料だ。無駄に出来る燃料など、一マイクロリットルたりともありえない。
これを考えると、そもそも強制収用所で組織だった虐殺が行われていたと言うこと自体、馬鹿馬鹿しいことだとわかってくる。資源には当然、労働力も含まれるのだ。
要するにその新聞社は、これらのことを明かしただけなのだが(というか懇切丁寧に説明した)、これがあちらこちらから批判を受けた。イスラエルやアメリカ、ソ連は元より、何故かドイツ連邦共和国からすら批判がやってきたのだ。日本は、隣にある半島を思い浮かべながらさまざまな感想を抱きつつも、沈黙を守っていた。
シュレンの属している会社はこういう会社だった。そして彼女は、どちらかといえば新聞社の考えに近いものを抱いていた。だからこそ新聞社が、かつての欧州と似たように、大日本帝国という嵐に遭遇した東南アジアの国々は日本に対してどのような思いを抱いているかを取材せよ、という命令にもすんなりと従ったのだった。
彼女にこの取材任務が与えられた理由は幾つかあった。彼女は外国語に堪能であったし、異文化との交流にも慣れていた。彼女の過去の異性関係から、それが窺えた。ただし、彼女と関係があった異性が日本人であることは、会社内では黙認されていた(彼女の任務は東南アジアでの日本の評価を調べに行くに他ならない)。
そして、彼女の取材活動も概ね順調だった。評価の程としては、日本国は、極一部の地域を除いて、好意的に受け取られていることが分かった。彼女にとって驚くべきことだったのは、かつての大日本帝国にさえ、好意的な見解を示す者が多々いたことである。曰く、日本のおかげで我が国は独立できた、など。
確かにそれは正しい評価に思えた。日本がアメリカに戦争を仕掛けたからこそ、アジア諸国は――というか黄色人種は、自立することが出来たのだ。その過程で幾つも悲劇があっただろうし、当時の帝国軍部内に邪な思いを抱いていた人間がいないとも言えない。だが、結果的にみれば(いろいろな意味で)世界にとってプラスであったことは明白だった。
彼女は一連の取材からそれらのことを明確化し、文章に纏めた。彼女の取材はこれで終わろうとしていた。
今持っている書類を三重の特殊暗号にかけてから本社に送れば、彼女は一週間の休暇をもらえることになっていた。取材の内容によっては、昇進すら約束されていた。
加えるならば、彼女は休暇の時に何処へ行くかも決めていた。東南アジア……というか極東アジアで最も物価の高い国だった。
もちろん、彼女の古い友人――というには少し深すぎる関係になった男――がいる(はずの)国だからだった。
だが、運がいいのか悪いのか、彼女はその男に会ってしまった。この国で。自分がジャーナリストになったのと同じように、彼は商社に勤めているという。あの彼が、だった。少なくとも彼女の記憶の中での男――カトー・テツヤは、無口で冷たい、怜悧な男だった。そんな彼が、おそらく良好な対人関係を絶対条件とする商社マンなどという職業に就き、立派に社会復帰(と言えば、彼にとって失礼かもしれないが)を果たしているのだ。
正直、彼女にとってはそれが嬉しかった。自分と親しかった人間が軍などと言う血なまぐさい職業から足を洗い、立派に活動しているなんて!
だがそれは、彼女の休暇の楽しみを奪う結果ともなった。日本に行く最も大きな理由は、もちろん、テツヤに会うことだったからだ。
「どうしようかしら」
よって、彼女は道中頻繁にそう呟いていた。
本社と暗号通信の出来る施設は、ハノイの中央にある通信社にしかなかったので、彼女はそこへ向かって歩いていた。時刻は午前一時少し過ぎ。人通りは少なくない。
曲がり角から、ライフルを持った男が飛び出してきたのはその時だった。
「素雪、こっちだ!」
「ラインか!?」
素雪・ヴァレンシュタインは直属の上官、ターネス三佐より命令の変更を受けていた。内容は、ターネスの彼に対する信頼を表すように簡潔。傭兵部隊に協力し、逃走したテロリストを殲滅せよ。
そして、彼が外に飛び出したとき、ちょうど近くにいた味方部隊が、ラインの直轄部隊だったのだ。彼にとっては僥倖と言えた。ラインとは、知己だったからだ。
素雪は肩に付けた警察と言う腕章(これは現地住民に見られた際、疑われないように渡されたもの)を確認した後、ビルの角で周囲を警戒しているラインの部隊の元へ走った。もちろん、ジグザグで。
「敵は?」
ラインたちが確保している角へ滑り込んだ素雪は、銃を油断無く構えながら訊いた。
「向うだ。行くぞ」
そう言うと同時に、チーム全体が動き出す。素雪はラインの部下の、練度の高さに舌を巻きながらも、きっちりとそれに付いてゆく。かつて彼が在籍していたころと、似たような動きだったからだ。進歩が無いわけではない。基本に忠実なのだ。
「いた」
道を二本ほど走り抜けると、手にアサルトライフルを持った男が逃げているのが見えた。間違いなく、テロリストだった。もしそうでないとしても、白昼堂々ライフルを持って走っている男だ。摑まって当然だ。
「足を止める」
「無茶をするな」
素雪は手に持ったMP5A4サブマシンガン(元々ここの警察が持っていた物だ)をテロリストの足の部分に向ける。一直線に走っていたので、未来位置の予想は楽だった。引き金を引く。クローズドボルトとローラーロッキングを組み合わせた革新的なサブマシンガンであるMP5は、その評判どおり抜群の命中率を誇った。ほぼ真後ろに衝撃の来るローラーロッキングシステム(つまり、銃口が上に跳ね上がりにくい)は、アサルトライフルで採用した場合、逆に反動が強すぎて人によっては肩を痛めるが、九ミリパラベラム弾を使用するサブマシンガンにおいては、命中率を高める絶好のシステムだった。もちろん、一番命中率が高まって構造もシンプルなのは、シンプルブローバックシステム(何の仕組みもいれずに、スライドとスプリングだけのシステム)なのだが。
九ミリパラベラム相応の(ライフル弾に比べれば)軽い銃声が数発つながり、テロリストの足部を襲った。その内、二発が命中する。一発は脹脛を掠り、もう一発はアキレス腱を切り裂いた。
テロリストが、足から血を出しながら、悲鳴を上げて倒れる。重要な血管や神経に傷はついていないようだ。……おそらく。銃は放り出した。
素雪は、次にその銃に狙いをつけて発砲する。機関部に数発命中し、破壊された。
「衛生班、場所はGPSで分かるな。いそげ。味方じゃない、敵だ。銃創だからな」
素雪が銃口を下に向けて周囲の観察を始めると、ラインが味方に向かって通信した。衛生班を呼んだようだ。
「一応、拳銃かナイフの警戒をさせたほうがいいぞ」
「ああ、大丈夫だ。そのくらいは教育してるんだぜ」
ラインは通信機を部下にわたし、言った。
「とりあえず、この場所から離れよう」
「了解だ」
素雪が答えると、ラインとその部下は後退を……つまり襲撃したビルの地点に戻る道を進み始めた。素雪が倒したテロリストの近くには、既に野次馬が集まってきていた。人通りが少なくなかったからだ。衛生班はそれで苦労することになる。
突然、銃声が鳴り響いた。
「何処だ?」
「右、四時方向」
素雪は言うが速いか、そっちの方向へ銃を向けた。視界に入るのは背の低いビル。わざわざ細い路地を抜けてきたので、当然だった。素早く他のラインの部下が、素雪の背中を守るように動く。素雪は心中でラインの訓練のよさを褒めながら、銃声のした正確な場所を考えた。おそらく、ビル三つ分ほど向う。
「敵か? 味方か?」
「拳銃弾だが、どっちだろうとかまわない。行くぞ」
「ああ」ラインは短く答えた。
ラインとその部下、そして素雪は注意深く、しかし素早く道を進み始めた。銃声の音は、徐々に大きくなっていっている。誰かが無闇に連射しているようだ。
「素人め」ラインが罵った。
「テロリストの方だな……。跳弾で死傷者が出てなきゃいいが」
「だな。急いだほうが良い」
「ああ。……あれだ」
三つ目のビルの角を曲がったところで、素雪が言った。ラインたちは慌ててビルの角に隠れる。もちろん、全員が一つの角に隠れるなんて無理だから、半分ずつ道路の両脇のビルに。
素雪は反対側のビルの陰まで駆け込み、そこから敵テロリストの方を観察した。敵は二人。道路の広さは……運がいいのか悪いのか、三車線道路プラス歩道だ。車がちらほら見えるが、そのどれもが急停車して、あるいは道の真ん中に停まった車にぶつかっている。人影も多い。皆、伏せるなり逃げ惑うなりしている。何故か、そこまで混乱した風ではないのは、この町がハノイだからだろう。流石何度も戦場になっている町だけあって、ちょっとやそっとの銃声では混乱しないのだろうか? 大したものだ。
「あ……」
「どうした」
「ウチのだ」
素雪はそういいながら、敵テロリストを確実に追い詰めていく身内――哲也を見た。彼はセオリーどおり、道の真ん中に伏せながら素早くテロリストの片方を撃ち殺した。コンクリート製のビルが並ぶ街中ならば、壁際よりも道の中心の方が逆に命中率が低いのだ。角もまた然り。狭い路地の角に入ろうものなら、いつどの位置から跳弾が襲ってくるか判ったものじゃない。
哲也は敵が倒れるのを確認すると、逃げるもう一人にも銃を向ける。が、哲也が引き金を絞る前に、敵は道路を曲がってしまった。無茶すれば何とかなったかもしれないが、道路には人が少なからずいるので、やたら滅多ら撃ちまくるわけにはいかない。
「援護が要るな」
「ああ」
素雪はラインの言葉に頷いた。哲也の後方には数人の第4小隊員がいたが、別の敵と市街戦じみたものをしているらしく、哲也に加勢は出来そうにない。
……あれだけ騒がしくするなと言われていたのだが……。いや、仕方が無いか。むしろ、あんな人通りの恐ろしく少ない場所で銃撃戦が起こったことを感謝せねば。いやもちろん人通りの多い場所でも銃は撃ってはいるが、まぁ、この町では日常茶飯事なんじゃないだろうか。俄かに信じがたいことだが、素雪は本気でそう思っていた(いくらハノイとはいえ、そんな南アフリカや中共のようなことはない)。
もちろんそんな真実など知りようもないしどうでもいい素雪は、ラインに、
「援護する」
と告げるや否や、走り出した。ラインたちも、素雪を援護出来るような形で走り出す。
哲也は、テロリストを追って角を曲がろうとしていた。素雪たちもそれに続く。
ザラフ青年の心中は、全く穏やかではなかった。
数々の偶然が重なった結果、彼は自らの組織のアジトが襲われるという窮地を脱出していた。彼は絶対に認めたがらないだろうが、これは、彼の言う裏切り者――あのファルケとかいうロシア人――が逃げ出したことによって、ほんの僅かだが出来たあの帝国主義者(彼は古い考えを大切にする男だから、覇権主義者などという言葉は知らない)どもの隙のおかげなのだった。もちろん彼自身は、全て自分の力だと信じて疑わなかったが。
しかしそんなザラフに、帝国主義者たちは愚かにも再び攻撃をかけてきた。もちろん彼は、その襲撃すら掻い潜った。強運の持ち主と言えた。ある意味、彼は神のご加護を受けているのかもしれない。彼自身は決して神など信じていないが、傍から見ればそうも見えるだろう。ちなみに、神とは飽きっぽい存在である。
そして今ザラフは、神が彼に飽きてしまったかのように、不運のどん底にあった。帝国主義者たちと華々しく撃ちあいをし、敵を突破できたのはいい。だが、その後がいけなかった。何故か自分たちの背後から現れたほかの帝国主義者どもが、執拗に自分たちを追いかけてきたのだ。本当は、あの時挟み撃ちにされてもおかしくない状況だったのだが、彼の部下の一人が、
「背後に何かトラップを仕掛けましょう」
と言ったのだった。ザラフは、そんなことをする必要など無いと根拠もなく思ったのだが、その男がどうしてもと主張するので、じゃあお前一人でやれと言ったのだ。
もちろん、ザラフが助かったのは彼の部下のおかげなのだが、ザラフはそんなこと知りはしない。加えるならば、彼の部下は彼が脱出する際、彼を庇って死んでいた。
そして、そんなザラフの運すら、今尽きようとしていた。何とか街中へ脱出した彼は、帝国主義者どもに見つかってしまったのだ。
「くそ、くそ」
ザラフは走った。ちくしょう、何で俺ばかり。
ザラフは今年二十六歳だったが、今まで生きてきていいことなど一度もなかった。彼はヴェトナムの基準で言えば比較的裕福な家に生まれ、両親の性格も良く何不自由無く育ったが、彼はそう信じていた。彼が親を嫌って、家を飛び出し、テロ組織に入り、その組織が彼の思ったとおりでなかったものも、彼によれば、彼の回りが悪いことになっている。
ちくしょうめ。なんで俺だけがこんなにいやな目に遭わなきゃならないんだ。ザラフは心中で叫んだ。世界には彼よりも辛い思いをしている人間などざらにいるが、彼はそんなこと考えもしなかった。
「ちくしょう」
今、共に逃げていた仲間が射殺され、彼の意識は急速に現実へと引き戻された。血を吹き、隣を走る男が倒れる音がする。もちろん、彼は振り向きもしなかった。ただ、逃げることだけに集中していた。
ザラフは曲がり角を曲がった。本能的な判断だった。彼の判断は、この時に限ってまさしく正解だった。
だが、曲がり角の向うには一人の女性がいた。ドイツ系らしい白人の女性だった。ドイツ系・白人。それだけで、彼にとっては敵も同然だった。
「くそ!」
ザラフも女性も、衝突を避けることは出来なかった。だがザラフは、転んでもただでは起きなかった。彼は何とか体勢を立て直すと、ぶつかって倒れた女性の襟元を乱暴に摑み、引き上げた。
「――痛い……」
女性――シュレンは思わず声を上げる。だが、それは現代ヘブライ語だったので、ザラフには意味が分からなかった。
「立て!」
ザラフは強引にシュレンを立たせると、その頭に銃を突きつけ、両手を後ろ手で摑んだ。シュレンがひっ、と声を上げる。もちろん、ザラフは気にしない。そのまま後ろへ下がる。
ほんの少しだけ待つと、案の定、先仲間を撃った男が現れた。こちらのほうへ銃を向け……驚いた顔をして硬直した。ザラフはにやりと笑った。
「動くんじゃねぇ!」そう叫ぶ。
哲也は驚愕した。
理由は幾つかあるが、全てが連立している。まず、テロリストの男が立ち止まっていたこと。次に、その男は腕に女性を抱えていること。また、その女性の頭にライフルを突きつけていること。最後に、その女性がシュレンであること。
「動くんじゃねぇ!」
男が叫んだ。だが、哲也には聞こえていなかった。だがしかし、動く気もしない。シュレンの眼を見る。自分と同じ感情が張り付いているその紫色の眼。ドイツ系ユダヤ人には珍しい色をした目。色素が半分抜けかかっているの、と彼女は言っていた。こんな色の瞳をした人間を、哲也はシュレンしか知らない。
銃は、構えている。望めば、いつでもテロリストを殺せる。だが、その時はシュレンもどうなるか分からない。撃つべきか、撃たざるべきか。彼の心は、その当然の疑問の狭間で揺れた。
もう一度、シュレンの眼を見る。彼女はどう思っているんだろう? そんな考えが浮かんだ。イスラエルにいるときに教えられたこと――これから殺すかもしれない相手の顔を、眼を、よく見るな。殺せなくなる――は完全に無視していた。彼にとってはそれでも良かった。
シュレンの瞳は、何かを語っていた。何だろう、と思い、凝視する。もう彼女以外何も眼に入らない。彼女の口が、ゆっくりと動いた。声は出していない。だが、それでも伝わるだろう……。
「どけ!」
素雪の声が聞こえたのは、哲也がシュレンの言いたいことを解読している最中だった。彼は、哲也を強引に突き飛ばし、代わりにテロリストに――哲也から見ればシュレンに、銃を向けた。
「ま、待て!」
哲也は制止する。だが、素雪は訊かなかった。彼は正確に狙いを定め、撃った。
素雪は曲がり角を曲がった。
一瞬、眼を疑う。哲也が突っ立っていたのだ。だが、素雪は叱咤も怒号も漏らさなかった。彼の向うに、一般人らしき白人女性に銃を突きつけるテロリストの姿が見えたのだ。素雪は、哲也がさほど銃の腕前を持っていないことを知っていた。狙撃でも、中距離でも、近距離でも、銃撃は素雪の方が正確だった。哲也はどちらかと言うと、ナイフ戦闘や特殊兵器――自衛隊用語の特殊武器の親戚ではなく、戦車や戦闘機など――の扱いに精通していた。
だから素雪は、哲也を押しのけた。自分の方が、銃を上手に扱えると理解していたから。
しかし哲也は、不可解なことを言った。
「ま、待て!」
素雪は、その声を意識から締め出した。彼が一種の錯乱状態にあると判断した。今の状況で最善の策が取れないでいるのだと解った。
素雪は冷静に、しかし素早く正確に、テロリストの男を狙った。照準先は、男が最も人質から露出している右肩。命中率のいいMP5A4だからこそ出来る芸当だと思った。
セレクターがセミオートに入っているサブマシンガンの引き金を引く。拳銃弾の軽い振動がして、男の肩を九ミリ弾が貫くのが見えた。男は銃を取り落として、肩を抑える。痛みで悶え、女性を放り出して地面に転がる。
素雪は、冷酷ともいえる態度で追撃した。両手両足の全てを撃ち抜き、抵抗力を完全に剥奪する。さらにそれでも、注意深く男へと銃を構える。
結局、彼が構えを解いたのは、全てが終わってから三秒後、ラインが駆けつけてきた時だった。