2017年 920

 

「観光でもしたい気分だなぁ」

 哲也が気楽に言う。

「全くだな」

 素雪は無表情のままで言う。本気かどうかもわからない。少なくとも、現状を楽しんでいるようには見えなかった。

「おまえさぁ……」

「ん?」

 哲也の呆れたような口調の言葉に、素雪は疑問符を投げかける。

「もう少し楽しげになろうぜ。せっかくこんなところ来たんだからさ」

 こんなところと言うと、中国領北ヴェトナムに他ならない。第三次世界大戦の時、ヴェトナム、フィリピン、そしてマリアナ諸島と攻め上った人民解放軍は、この辺りを完全に中共に編入しようとしていた。先言った現地住民の共産化もその方法の一つだ。もともとヴェトナムはヴェトナム戦争時に赤くなろうとしていた。だから、今ですら、未だに共産主義にあこがれる人間を探すのは楽だったと思う。支那大陸北部から中共の勢力が撤退し、新たに中国が統治することになっても、この場所がヴェトナム、フィリピンに返還されることは無かった。理由は、やはり前述した。結局のところ、中共が占領した地域で、占領前の国に戻った場所など無いのだ。マリアナ諸島は、今や日本領になっている。もともと日系人が多いし、日本人観光客も多かったマリアナ諸島は、日本への併合が非常にスムーズに行われた。一番問題になった銃規制の問題だが、射撃設備などを完全に国の管理下におくということで合意している。

 まぁ、それは今のところ関係ない。グァム島へ観光に行くのに、パスポートがいらなくなった程度の変化でしかない。勿論、表面的には、だ。日本はあの島々を手に入れることにより、広大な排他的経済水域と質の良い軍港、空港を手に入れることが出来たのだ。特に一般民衆にとって前者の意味は大きい。日本は魚介大国(食べる方)だが、その自給率は必ずしも高くはなかったのだ。

 こんな風に(日本にとって)良好な結果で終わったマリアナ諸島と反対に、旧北ベトナム、フィリピンは酷いものであった。連日のテロ活動や暴動。一番酷いのは、それが中国本土、そして日本にも飛び火しているということだった。部隊を増強された日本警察特殊強襲部隊(SAT)の出動するような凶悪事件の回数は月平均で、去年から〇・五回に上がっている。年に六回も凶悪事件がおきている計算になるのだ。

 だからこそ、だろうな。哲也は思った。日本国の利益、その為にも、テロリストの壊滅……いや、コントロールは重要なのだ。中国の救済、日中(国)関係の親密化。アジアで最も発達した国としての自覚。おそらく、どれもが嘘でどれもが本当なのだろう。日本とは、結局はそういう国になってしまった。情に熱い国民性でありながら、アメリカ式の非情な実力主義社会を取り入れた結果がこれ、悲しいまでの同族意識。自らを守るためならば、ルールに反しない限りどんなことでもする。

 だが、間違っちゃあいない。自国民の手による自国民の保護。全く当たり前のことだ。そして、人類と言うものはその為にあらゆる手段を行使する権利を、残念なことに与えられてしまっているのだ。自らの手によって。

 現在日本は、その権利を存分に行使しているように思えた。貪欲にアメリカから技術を貪り、軍拡を進め、列島を改造し、そして宇宙開発にまで手を染めている。一昨年の、日本発の有人宇宙船――それも、中共のようなポット型ではなくスペースシャトルタイプ――が無事生還した時など、感動のあまり涙した人までいるのだ。そして現在、スペースプレーン技術すら物にしつつある。石川島播磨重工がアメリカのNASAおよびGE社やRM社と提携することで手に入れたエンジン技術は、それを可能にした。悲しいのは、それらの技術が実用レベルに達したとして、まず使用されるのは軍事であろうと言うことだ。

「だから、だよなぁ」

「何だよ」

 素雪が少し唇を尖らせて、語調を強めて言う。どちらかと言うと女顔の素雪がそうすると、あ、可愛いとか思ってしまう。

 勿論哲也は、自分の存在意義を破壊してしまいそうなその考えを頭の片隅に追いやった後、B2ステルス爆撃機を一個飛行隊よんでGPS誘導装置付き二〇〇〇ポンド爆弾で吹き飛ばしてしまった。その跡地には、そういやぁ日本がアメリカから分捕った……もとい、友好国への技術支援として提供してもらったB2はどうなってるんだろう、という思考を設置する。

「お前、任務の空き時間を楽しむとか、そういう思考ある?」

「あるよ」

 淀みなく答える素雪。哲也はさらに顔を顰める。

「どんな風にだよ。お前、この前任務帰りに遊びに誘っても来なかったじゃないか」

 任務と言うのは、当然訓練のことだ。訓練は毎日行われて、月曜日に開始して金曜日に終了する訓練なんていうものも少なくないが、朝九時から始まって夜の七時に終わる訓練と言うのも無い訳ではない。

「遊びって……ゲーセン、色町、花町。どれも趣味じゃない」

「ゲーセンはともかく色町や花町……って、どっちも同じ意味だが、興味無いのは人間いう生命体として欠陥だぞ」

 素雪は、ははん、と鼻で笑う。哲也はなんとなくムカついた。

「それは、あれか?自己の保存の為のプログラム云々、という訳か?」

「まぁ、そんなところだけど。本能を持っていない人間なんて無いのと同じだぞ」

「まぁ、そうだろうね」

 素雪は言った。説明口調だ。

「つまるところ、生命体の活動原理なんてそれだからね。遺伝子を残す。つまり、子孫を残す。これしかないわけだ。滅ばぬよう微妙に変化をつけながら……つまり多様性を確保しながら、自己をコピーし続ける不思議な連鎖。それが生命だからね。そして、人間も生命でしかない。色……まぁ異性に対する興奮反応は、その遺伝子の保存手段、つまり、子孫の作成を円滑に進めるだけの手段でしかない。子孫作りの行為を人間にとって『楽しい』と感じさせることによって、人間が永遠に子孫を作り続けるようにするわけだ。別に人間に限ったことじゃないけどね。で、水商売ってのは、その本能から来る性欲の、異性に対する反応の快感を娯楽として純粋に楽しめるようにしたものなわけだ」

 哲也はこめかみを押さえて俯き、うーんと唸った後顔を上げる。

「要するに、色町は人間の本能的な快感を覚えさせてくれる場所、って事だろ」

「竹を割ってしまえばそうなるね」

 哲也は小さくため息を吐く。あることに気付いたからだ。つまり、それって……。

「お前が生命体としての欠陥を持っていると言う話とどう繋がるんだ?」

「いや、あんまり関係ない」

 哲也は今度は大きくため息を吐く。ついでに思った。素雪、つまりお前は、至極簡単なことを如何にも難しく話して、それで話題を逸らそうとしたわけだ。

「しかし」

 素雪が再び口を開いた。

「別に俺だってそういうものに興味が無いわけではない」

「ほぅ」

 哲也は口元に笑みを浮かべて相槌を打った。素雪はその哲也の顔を見て、露骨に嫌そうな表情をする。

「まぁ、興味が無いわけではないだけだ」

「と、言うと?どういうことかな、素雪君?」

 笑みを崩さず、すかさず訊く哲也。素雪は事も無げに答えた。

「そんなもの、いくらでも押さえ込める」

 その答えを聞いて、哲也は僅かに表情を変える。

「正気か?」哲也は聞いた。

「何が?」素雪は疑問形で答えた。

 しばらくの沈黙。先に口を開いたのは哲也だった。

「いや、何でも」

「先に言っとくけど、別に不能とかゲイとかじゃないよ」

「分かってるよ」

 素雪が哲也の表情の変化に少しの不安を示したことに、哲也は僅かに安堵した。

 

 自身の体の欲望が好きなように抑えられる。それはもう、生命体として機能していない。人間と言うのは、絶対に理性と本能を内包しており、その勢力は変化する。だが、基本的に本能の勢力と言うのは一定で、理性だけが変化するのだ。変化のパターンは単純。時を重ねるごとに勢力を増していくのだ。それが理性なのだから。

 そして、理性と本能の勢力の均等は、普通は中年ごろになってやってくる。勿論、個人差はあるが。そして、それより先になると、理性に従った行動を何時如何なる場合でも取れるようになるのだ。

 逆に言って、その前、つまり二十代後半まで(三十代に入ると理性と本能の勢力差はほとんど無いに等しいから)は本能が先立っていることになる。つまり、本能優先の行動をすべきなのだ。

 ここで言う本能優先とは、“好きな子が出来た――レイプしよう”の類の本能優先ではない。それはただの無節操だ。倫理観に立ってみて、その上で許される限りの本能の優先だ。例えば日本に住む日本人なら、法律の上で許される本能の優先――例えば、欲しいものをちょっと無理して買うだとか、水商売のお店にお世話になるだとか――などだろう。いくら本能が優先していたとしても、自らの倫理を捻じ曲げるような行動を抑制できるだけの理性くらい、子供でも持っている。

 ちなみに言うならば、少し前、万引きが異様に流行ったのは、理性が本能に負けた結果ではない。あれは、倫理観の構築が曖昧だったからに過ぎない。万引きが悪いことだと言う観念が少年達の頭の中に入っていなかったのだ。もしかしたら、犯罪という概念すら曖昧だったかもしれない。万引き犯に対する罰則を異常に強化した結果、万引きがぱたりと止んだのがその証明だ。子供達の中に万引きイコール悪という倫理観を植えつけたのだ。公開処刑的な罰則を科したのも、有効だっただろう。万引きをした者がどうなるかを、子供達に広く教えることが出来たからだ。

 だが、しかし。哲也は素雪の言葉――どう聞いても嘘を吐いていないように聞こえるあの言葉を思い出す。

 あの年で、十六と十七の境目で、理性が本能の圧倒的優位に立つのは絶対に不可能なのだ。そんなことをいう奴は大嘘吐きか、異常者かの二種類しかない。そして、素雪は大嘘吐きには見えなかった。子供の大人の境界という、酷く不安定な場所に立つ素雪が完璧に自分のコントロールを取れるのは、あいつが異常者だからに他ならない。

 何が原因だ。哲也は考え、すぐに思い当たった。決まっている。これしかありえない。戦争だ。

 殺人と言う行為は、子孫を残すことと同じくらい人間にとっての基本原則だ。古人の言葉を借りるなら、エロスとタナトスと言ったところか。

 人間は常に死を内包している。人間だけではない。全ての物体がそうだ。始まりあるものならば終わりあるだろう、そういうことだ。人間が常に体内細胞を老化させ、死の準備をしているように。物体は壊れるために誕生するのだ。

 そして破壊と言う行為は、つまり“殺す”と言う行為は、人間の本能に最も働きかけるものの一つだ。つまり、最高の快感に他ならない。人間が誕生以来一度も、子孫を作ることに飽きてこなかったように、誕生以来一度も、殺しあうことに、死ぬことに飽きたことは無いのだ。

 殺人を楽しむのは異常ではない。それは、人間に備わった最も基本的な行動原理なのだから。しかし、現代社会においては、それは間違ったことになる。理性という名の枷が充分に機能していれば、基本的な行動原理など、たった一つ――自己の死――だけに制限することが可能なのだから。

 だが、戦争はそういう人間に枷をはめることを止めさせる。あえて本能を解き放ち、敵を殺すのだ。

 そして、若い人間ほど、“殺す”という甘美な行為に耽溺しやすい。前述したとおり、理性が充分に成熟していないからだ。また、タナトスの方に夢中になった人間は、エロスの方を蔑ろにすることも出来るだろう。だが、逆もまた然りだ。

 つまり、前線の兵士が異常なまでに女性を求めるのにはこういう理由があるのだろう。自らの中で人を殺せといきり立つ本能を、股間のものをいきり立たせることで、その中身をぶちまけることで解消しているのだ。自分がそれ以上狂ってしまわないように、倫理が許す限りの行為で代用するのだ。

 だがしかし、素雪はそれが出来ていない。エロスの本能はあっても、それがタナトスの方で解消されると言う、普通の人間とは逆のパターンが起こってしまっているのだ。これは、まともな人間とはいえない。間違いなく異常者だ。

 これは、おそらく素雪の育ちに関係があるのだろうな。哲也はそう考えて、素雪に対して同情的な気分になった。そして、そうなってしまった自分を叱咤する。同情なんてして、あいつに何の利益があるというのだ!

 素雪の育ちの問題とは、つまり、と言うかやはり、戦争である。自分の破壊欲、殺人衝動を穴を掘ることで解決している男は、自分の中に倫理観を完成させてから戦争に身を投じたものがほとんどだろう。そういう場合、自分の中の倫理観が本能に対して、殺人以外の方法で本能の暴走を発散させるよう命令するのだ。殺人と言う、どう解釈を変えても許されるべきではないものに至る衝動を封じ込めるためである。

 だが、戦争の中で育ったものにはそれは無い。倫理観の構築が、一昔前の日本以上に出来ていないからだ。戦場では“死”こそが当然であり、必然であり、日常だ。そんな中で育てば、幼い時を過ごせば、およそ人並みの倫理観など生まれるわけもない。

 だからこそ、子供の兵士は最強だといわれるのだ。倫理観を確立していない彼らは、自責の念に責め立てられることなく、大量殺人に身を投じることが出来る。勿論少年兵は、体力面で大人の兵士に劣るのだが。

 ちなみにこのすこし後の時代は、その、少年兵は最強と言う理論を多くの軍隊が取り入れ、十代以下の兵士が、士官が大量生産されることになる。これは、戦災孤児の増加や、大規模な戦争のショックによる出生率の増加が主な理由だ。

 素雪は、つまりはその類なのだ。戦争しか知らぬため、人殺し以外の衝動を持ち合わせない、不幸と表現するのも足りぬほどの、戦争最大の被害者。

 そう、おそらくそうなのだろう。

 勿論、それを直してやる方法も無いわけではない。エロスの方で欲望を解消する方法を教え、同時にタナトスを禁じるのだ。そうすれば、タナトスでエロスを補うと言う普通の人間ではない欲望の解消方法を正せるし、エロスという手段が残されているので、欲求不満になることも無い。

 例えば殺人鬼……というか、先天的に人殺しが得意な奴(素雪もここに含まれるのだろうな)が超絶倫人的な夜の技術と体力を持っている理由はここにあるのだろう。もともとのエロスの欲求に加え、タナトスも併せ持つのだ。つまり、殺人鬼と呼べるような奴が殺人を犯さずまともな人間としているには、必然的に女性が(出来れば複数)必要になるわけだ。迷惑な話にも聞こえる。

 殺人鬼、殺人鬼かぁ……。哲也は思った。

 俺は、どうなのかな。俺が最初に人を殺したのは……十七の時だな。なるほど、つまり俺は今の素雪と同じくらいの時、新米の兵士だったわけだ。

 ならば、俺は素雪に比べてずいぶんと恵まれていることになる。はは、これは神に感謝すべきなのだろうか?

 いや、だが、それならば。哲也は衝動的に思った。

 俺はその代償を支払うべきなのだろうな。

 

「まぁ、お前のエロスが云々なんてどうでもいいんだよ」

「なかなか失礼な物言いだな、それも」

 素雪が砕けた調子で――勿論、“素雪の”砕けた調子だから、まぁ、押して知るべしだ――言う。

「いやぁ、そうか?」

 哲也はふざけた調子で聞き返すと、その調子を変えずに続けた。

「何なら良い子を紹介してやってもいいぞ。お前、年上は?」

 素雪はため息を吐く。

「やめてくれ……」

「何?ロリコン?」

 哲也を睨みつける。哲也ははは、と笑って黙った。顔はニヤニヤしている。

「言っただろう。今すぐ経験したいことじゃないんだよ」

「何を恰好つけてんだよ。童貞野郎」

「その言い方、アメリカだったら撃ち殺されてるんじゃないのか?」

 素雪の、おそらくジョークであろう言葉を聞き、哲也は普通に笑った。

「それに……」

「何だよ?」

 素雪が何かを言いかける。哲也は促した。

「いや、やっぱりやめておこう」

「言えよ。気になるだろう」

 哲也はすこし怒ったようにいう。正直に言えば、別の期待もしていた。もしかしたら、素雪の弱点の言質を取れるかもしれない。ばかばかしいことだが、こんなことを本気で楽しんでいた。

「いや、な。お前しょっちゅう別の女性と寝てるけどさ」

「あんまり人を軟派みたいに言わないでくれ。それに、俺が付き合ってる女性なんて数人だぞ。いや、本当に」

 哲也が大真面目に言うと、素雪は呆れたような顔になる。

「それ、同時だったら二股とか三股とか言うんじゃないのか?」

「いや……うん、大丈夫」

「怪しいぞ」

「ほっとけ」

 漫才のようなやり取りを一通り終え、哲也はさて、と区切った。

「で、何なの?」

「ああ、それなんだが」

 素雪は言葉を選ぶようにゆっくり言った。

「本気でもない人と付き合うなんて、俺は嫌だぞ」

 一瞬、場が静まった。そして次の瞬間、哲也が吹き出し、爆笑した。

「ははは、ははは、はは……」

 素雪はその様子を見て、眉間を押さえる。言わなきゃ良かった。悔恨の極みであった。

「い、いやぁ……くく……ははは」

「その辺でな」

 素雪が冷たい視線で哲也を見た。哲也はああ、と呟き、素雪の方を見る。再び吹き出しそうになるのを何とか押さえ、言った。

「しかし……お前、意外とロマンティストだったんだな」

「よく解らないが、そうなのか?」

「ああ、そうだよ」

 哲也は断言した。

「いまどき本気、とか言ってるようじゃあねぇ」

「?……結婚は『本気』の人とするものじゃないのか?」

 哲也はいやいや、と言いながら答えた。

「その『本気』すら、今の時代は移り変わっていくものなのだよ。だから離婚率高いのさ」

「それを本気と言うのか?」

「言うね」

 哲也は即答した。素雪は眉を顰める。

「あのな、その時は本気だと思うわけだよ。皆。でも、時がたって心変わりしちまう。そういうもんなんだって」

「それは……ただ単にアイデンティティが確立されていないだけじゃないのか?」

「まぁ、そうなんだがな」

 哲也は言葉に迷い、言った。

「だが、それが今の時代なんだよ」

 素雪はふぅんと相槌を打つ。哲也はそれを見て、再び顔に笑みを貼り付けて言った。

「だからな、素雪。お前の運命論的な人生唯一の『本気』の人ってのはな、女の子のいつかやってくる白馬の王子様と何の違いも無いのだよ」

 その言葉に、素雪は憮然とした表情を作る。哲也は軽く笑って、でもな、と言った。

「安心したよ」

「何がだよ?」

「いやぁ」哲也は言う。

「お前があんまりにも無気力に見えたもんだから、心配してたんだよ」

「そうでも無いさ。俺は自由の重みを理解しているつもりなんだ。無気力なんて危ない状態、ならないように常に注意を払っている」

 自由の重み。哲也は心中で反芻した。自分も、その言葉を考えたことがあった。

 哲也はその時のことを思い出した。記憶を手繰る。あれは……たしか十七歳。そう、今の素雪とさほど変わらぬ歳だ。

 

 第三次世界大戦が終結しても、アフリカや中東に飛び火した炎は未だ消えることの無かった時代、まさに俺はその中東にいた。

 親がとある貿易会社に勤めていて、中東の石油会社の担当だったから、親はサウジアラビアにいた。母親や兄弟はいなかったから、俺は日本で独り暮らしをしていた。アフリカのイスラーム系テロリストが親父を殺したと言うニュースを聞いたのは、親父がサウジに飛んで一ヶ月経たない時だった。

 最初は泣いた。とにかく泣いた。学校にも行かずに、ただただ悲しみに打ちひしがれていた。それから、怒りが込み上げてきた。どうして親父が、と言う気分が強かった。

 日本を発ったのは、親父が死んでから一ヵ月後のことだった。向かった先はイスラエル。中東の戦火が広まり、アメリカという調停役も無くし、ただただ泥沼へと突き進む第五時中東戦争の中、緊急で編成されたイスラエル外人部隊に入った。厳しい訓練と言語の壁を掻い潜って、俺は何とか外人部隊の一員になれた。

 イスラエルの急増外人部隊は、フランスのそれのような特殊部隊ではない。ただの、外人兵士のイスラエル軍部隊にすぎない。特別優秀なわけではなかった。その多くが傭兵で構成されていたが、傭兵というのはいざと言う時あてにならないものだから、練度は高くとも士気は高いとは言えなかった。

 俺はその中で戦い続けた。多くのアラブ人には、俺の親父を殺した罪なんて無い。それはよく理解していた。だが、イスラエル軍の一員と言う俺の立場は、妥協を許さなかった。心の支えになったのは、皮肉にも、俺が殺しているうちの誰かが親父を殺したかもしれないということではなく、俺がイスラエルの兵士だということだった。兵士なら人を殺すのは当たり前だ。その思いだけが、大量殺人の一翼を担っている俺の心の支えだった。仕事だから殺す。そう自分に言い聞かせた。

 転機が訪れたのは、入隊してから二年ほどたってからだった。その時すでに俺は、曹長に昇進して、後一歩で将校というところだった。特殊部隊への入隊を誘われたのは、その時だった。

 特殊部隊の主な任務を聞いたとき、俺は、信じてもいない神に感謝した。神と言っても、別にユダヤの神じゃない。キリストでも、アッラーでもなかった。ただ漠然とした、神と言うイメージに、だ。そういう面から見ると、俺はやはり日本人だったらしい。素雪の言葉を思い出す。日本人は神という存在を認めているが、それに頼ろうとしない。現実的なんではなくて、神に頼る必要が無いほど満ち足りているのだ、だったかな。あの時の俺は満ち足りていただろうか?だが、少なくとも悪い生活はしていなかったように思える。下士官だったから、そこまで扱いは酷くなかった。

 俺は迷わず特殊部隊に入隊した。特殊部隊の主な任務は、テロリストの殲滅。つまり、親父の敵討ちが出来るかもしれなかった。

 俺は、どうやら余程執念深い性格だったらしく、親父を殺したテロ組織の名前を覚えていた。自分で調べたわけではない。親父が殺されたことを報道していたニュース番組で、テロリストからの犯行声明の部分で言っていたのを書き留めておいたのだ。勿論、俺はそんなことをしなくても、完璧に頭の中に記憶していた。

 特殊部隊に入ってまず行ったことは、ひたすらの訓練。とにかく、ただただ訓練に明け暮れる日々が数ヶ月続いた。俺は最初の方は、特殊部隊に選抜された中でも、中間より少し上くらいの成績を常に保っていた。

 勿論、テロリストへの恨みはあった。それを晴らすために、親父の敵をとるために、何としても訓練課程を卒業して、特殊豚員になるんだとも心に決めていた。しかし、だからと言って、気力だけで常にトップクラスの成績が取れるわけがない。日本人はよく、九死に一生を得るとか、命を懸けてとか言うけど、悪い癖だ。命がけで何かやった程度で、何でもかんでも物事が成功するはずが無い。無理なものは、いくら頑張っても無理なのだ。何かを為すには、努力が欠かせない。これは絶対だ。そういえば、素雪も同じようなことを言っていた。あいつの言葉で言えば、世の中は全て等価交換。努力と言う犠牲を払ってこそ、成果が出るのだ、だったかな。なんかの漫画で見たような台詞だが、まぁ、間違っているようには聞こえない。

 俺もあいつの意見に賛成だ。何故なら、俺の復讐への執念は、直接成績へと結びつかなかった。でもその代わり、間接的には結びついた。

 俺は執念で、努力を重ねたのだ。具体的に言えば、どんな訓練も必死になってやった。努力というのは、誰にでも出来る。それをするかしないかは、執念、気持ちの問題なのだ。目標がハッキリしており、それに向かおうという意志さえあれば、人間自然に努力が出来る。と言うか、努力とはそれなのだ。そして努力は、個人差こそあれ、必ず結果になる。

 俺は、目標も意志も完璧だった。だから、努力できた。結果は、特殊部隊の訓練課程を首席から一個下で終了と言うものだった。満足すべきだろう。何せ、俺が兵士になったのは二年前だったのだ。それまで俺は、銃すら持ったこと無かった。

 それからは、テロリスト狩りの毎日だった。勿論、軍の特殊部隊だから、テロリスト退治だけが仕事ではない。パラシュートで敵陣の後方に展開し、兵站線を叩いて味方部隊を援護したこともあった。ヘリボーンで岩山に降り立ち、砂漠の中を進む敵部隊の部隊長を狙撃したこともあった。特殊潜航艇を搭載した潜水艦(おそらく日本から輸入したのだろう)に乗り込み、シナイ半島の沿岸部に展開する部隊を奇襲したこともあった。勿論、本格的な戦闘ではなく、敵陣地に忍び込んで、爆弾を爆発させる程度のものだ。

 しかし、戦争と言うのは何時も何処でも起こっているものではない。それに、特殊部隊の作戦というのは実行のタイミングがひどく限定されるのだ。めったに行うことは無かった。ただし、特殊部隊の軍事作戦を実行している時、日本で見ていたスパイ映画を思い出して、ひどく気分が高ぶっていたこともある。不思議なことに、これは終始消えることはなかった。俺は、芯の部分では日本人なのだろう。たとえ現実の任務とスパイ映画の任務に多くの相違点があったとしても、今度は逆に、それを発見することに悦びを見出したのだからなおさらだ。

 俺にとっての転機が訪れたのは、特殊部隊に入隊してきっかり二年後。訓練期間も含めるなら一年半後ということになる。その日は珍しく、軍のお偉い方まで来ていた。そう、あの日は永延に忘れない。

「では、説明を始めようか」

 現代ヘブライ語で、中佐の階級章を付けた白人の男が言う。ユダヤ人が本当にイスラエルを約束の地としてモーゼに率いられエジプトから逃げ出したとすれば、彼らの肌の色は、本来アラブ系の濃い色であるはずだ。少なくとも、白人の可能性は無い(これはイエス・キリストにも言えることなのだが、何故かキリスト教を信仰しているのは白人の国が多いのだ)。

 では目の前のユダヤ人を名乗る男は何なのだと言うことになるが、それは、やはり声を大きくして言えない理由があるのだ。古いものでいけば十字軍、新しいものでいけばナチスドイツがユダヤ人虐殺を行ったと言うプロパガンダが深く関係している。

「我々は、―――のアジトを壊滅させる」

 俺の上官である中佐は、俺が怨んで已まない組織の名前を口にした。瞬間的に血圧が上昇したのが自分でも理解できた。手に力がこもった。このまま雄叫びを上げたいとさえ思った。

「計画は、今から説明する。まず、戦車を使って――」

 中佐が作戦を説明する。計画は複雑を極めた。だが、冗長性の確保を忘れたわけでもなかった。戦車や警察を使った三重の包囲をした上で、特殊部隊四個小隊が一気に突入する。正面、裏口、屋上からだ。そのうち、正面は(デゴイ)に近い。本命は裏口、そして屋上だ。特に屋上から突入する部隊は、最も危険度が高い。敵のボス――つまりテロリストどものリーダーは、五階建てのビルの四階にいるからだ。ちなみに、緊急脱出用の特性ダスト・シュートなどは先んじて押さえておく。

「以上だ。質問は?」

 誰も何も言わない。俺もそうだった。

「よろしい。では、何処が何処を担当するか言うぞ。まず――」

 そうして中佐は、どの小隊がどの位置を担当するか発表していった。俺は――屋上から突入する班だった。嬉しくて泣きそうになった。つまり、俺には復讐を果たすチャンスが与えられたということだ。

 

 作戦は二ヵ月後に決行された。作戦の第一段階……つまり包囲を完了した状態で、俺たちは突撃することになっていた。俺たちは戦車とアームスーツ、装甲車や警官隊、軍隊が取り囲む建物の上空に来ていた。騒音抑制機を装備した輸送ヘリに乗っていた。下の、面白いことに気付いた。包囲している戦車群の中に、イスラエル国産のメルカヴァ戦車以外のものを見つけたのだ。日本の三菱製の戦車だった。自衛隊も採用している……というか、自衛隊用に開発されたものだった。〇六式ではなく、〇七式だった。一二〇ミリ滑腔砲を装備した、世界で二番目に砲塔内無人を採用した実用戦車だ(一番目は〇六式)。

 一般的に〇六式、〇七式戦車は、デリケートな自動装填装置が砂塵舞う戦場では弱いと言われていたはずだった。しかし、もう少し軍事というものを職業的に捕らえる人々の意見としては、それは日本のブラフだと言うのが一般的だった。何故なら、そんな戦場で使えないようなものを、軍隊に準ずる組織である自衛隊が採用するわけが無かったからである。

 〇六式は北海道にだけ、〇七式は日本全国に配備されている。しかし、〇七式の調達は二〇二五年以内には終了すると言われていた。何故なら、日本はすでに多足戦車を実用化してしまったからだ。

 〇七式戦車は、九〇式の後継ではなく七四式の後継と言われる。それは、重量四七トンという軽量で小柄な車体からだ。日本国の領土はほとんどが山林か人口密集地であり、そんな場所で大柄な戦車など使えない。故に、市街戦で活躍できる小型で機動力に優れ、良好な視界を確保できる戦車を求めたのだ。〇七式がそれだった。すでに〇六式で実用化された一四〇ミリ滑腔砲を敢えて採用せず、小口径の一二〇ミリを採用したのも、それが理由だった。良好な視界を確保するためにあちこちにカメラを付け、車内をまるで軍艦のCICを小型にしたような様子にしてしまったのもそういう理由だった。砲塔内を無人にしたのは、生残性(サヴァイヴァリティ)を高めるのがその理由だ。信頼性が低いと言われる自動装填装置は、完全に国産することで精度を上げ、実用レベルまで持っていった。いろいろな意味で恐るべき戦車といえた。特に、市街戦においては最強の部類に入っただろう。それに加えて自衛隊は、俺の所属する軍隊、イスラエル軍の市街地での戦車運用法を研究した。常にアラブ人(パレスティナ人)と市街地で構想を繰り広げるイスラエル軍は、その道のプロと言えた。

 だが、おそらく最も恐ろしいのは、そんな風な高価な部品(高性能コンピュータ、自動装填装置、小型高性能カメラ)を大量に使ったため、単価が一般的な三・五世代の一・二倍になってしまったその〇七式を普通に量産する自衛隊の精神だろう。七四式を改造して長く長く使おうとは全く考えていなかった(だが、これは仕方の無いことだ。七四式は基礎設計が古すぎた。それに、九〇式は改造して使っている)。

 しかしながら、そんな市街戦で最優秀と言われた〇七式も、自衛隊ではすでに旧式に成り果てようとしていた。自衛隊が、多足戦車を採用したからだった。

「旧式か……」

 俺はヘリの中で下を見ながらそう呟いた。すでに降下準備を行っていたから、下が見えたのだ。

 日本製の戦車がここにあることには驚かなかった。少し前から、日本がイスラエルに戦車を売却すると言う情報が飛交っていたからだ。日本はすでに、幾つかの会社(JMIなどがその筆頭)がイスラエルへの武器売却を行っていたから、戦車の売却も成功するだろうと言われていた。なんといっても日本の戦車――〇七式は、イスラエルの軍事教訓から生まれた、市街戦用の戦車なのである。

 だからおそらく。俺は考えた。

 あれは、先行して少数売却されたものなのだろう。運用試験を行うつもりだろうな。そして、まずまずの結果が出るだろう。なんといっても日本製だ。全体的な設計や細部は、未だドイツやアメリカに劣るが、コンピュータでの制御は逸品だ。最近では欧州連合(EU)諸国の兵器はほとんどが、日本製のコンピュータを搭載するようになっているくらいだ。

 そして、その後もわかっていた。日本の戦車の有効性に驚いたパレスティナも、日本から戦車を輸入するのだ。こうして日本は、同時に二つの顧客を手に入れることになる。日本はイスラエルともパレスティナとも友好な関係を保っている。そして、双方へ武器を売ることは、その二つの国との関係悪化を呼び起こさないのだ。

 これは不思議な話に思えるだろう。何せ、自分の敵国に自分達が使っているものと全く同じものを売却するのだ。しかし、それが常に悪い結果をもたらすとは限らないのだった。

 と、言うのも、イスラエル、パレスティナ双方とも、本心では、戦争などしたくないのだ。無駄に国力を疲弊させるだけだし、無駄なお金が掛かりすぎる。最近の戦争は、戦争によって得られる利益が戦争によって失うものを下回るようになってしまっているのだ。だから、いくら表面上は民族問題で争っていても、本心では、何か革新的な解決方法でも見つからないものかと暗中模索していた。ちなみに、譲歩と言う言葉は存在しない。

 ここで、日本が双方に強力な武器を売るとする。すると、互いの国の軍部は「相手は日本製のこんな強力な武器を持っているのだから、積極的な攻撃はやめよう」と、国(民衆)に進言できるのだ。

 これが常に成功を収めるわけではないが、少なくとも、無闇に戦争などしない方がいいという自分たちの言葉の裏付けにはなる。

 これがイスラエル、パレスティナ双方、そして日本の考えだった。この中で日本が得た特に素晴らしい外交上の勝利は、常に成功を収めるわけではないという部分であろうか。例えば、どんなに抑止力を持っているからと言っても、エジプトやパレスティナが絶対に攻撃をしてこないわけではない。むしろ、何時戦争が始まるかびくびくしながら過ごさねばならないのだ。そしてそれは、冷戦状態における軍拡合戦を引き起こす。そうなれば、日本にとってはしめたものである。日本はその影で大量に兵器を売却することが出来るのだ。

 そして、もう一つ日本にとって幸運なことがあった。それは、イスラエルの軍拡に石油輸出国機構(OPEC)の国々も参加せざる終えないと言う部分である。イスラエルに引きずられるようにして軍拡の必要を発生させられたOPEC諸国は、軍隊の拡張に必要な兵器、教官を外国から調達せざるをえない。何故なら、OPEC諸国には石油産業以外まともな職業が無いからである。

 そして、その最も手っ取り早い兵器の調達先が、日本とEU諸国なのである。その中でもサウジアラビアやアラブ首長国連邦などは、仲のよい日本製の兵器を好んだ。いや、別に仲がいいだけが原因でもない。これらの国には石油のおかげで金があるんだ。米国が世界を統治していた時代も、高価な、しかし当時としては最強だったF15イーグル制空機(と呼ぶべき性能だった)を導入していたのだ。

 と言うわけで日本は、イスラエルに兵器を売るだけで中東中に兵器を売りまくれたのだ。昔の米国みたいな手口だが、一つだけ大きく違っていた。それは、米国のように中東の紛争に積極的に介入しなかった点である。先言ったサウジアラビアやUAE等の少数の親日的な産油国と仲良くしておき、それらの国の充分な独立さえ保てば、後は何の行動もしなかった。日本にとって、安定的に石油さえ手に入れば、中東がどうなろうと関係なかったのだ。

 ある意味で利己的な行動とも言える。しかし、理解できないでもない。米国は、世界中の紛争に首を突っ込みすぎて、自滅したのだ。経済大国である日本は、世界の警察的地位を望まなかった。自分達が安心して商売の出来る環境さえ整えれば、後のことは全く介入しなかったのだ。アフリカに介入して平和をもたらしたのだって、結局は自分のためだった。それは、平和な発展途上国を作ることにより、将来の需要を確保すると共に、世界中に自分達は平和主義者だと言うことを知らしめた。

 いやはや、俺の祖国は狡賢いことだな。日本人は昔から、極端から極端へ走ると言われていたが、まさしくその通りだろうな。嘗ての軍隊を持たない平和大国が、今では世界の武器庫の一つだなんて。

 いや、そう考えると、俺もまた日本人だな。何せ、喧嘩すらあまり好きでなかった俺が、今では立派な特殊部隊員だ。

「まったく……いや、でも、別に悪い気分でも無いか」

 俺は日本語で呟いた。

 そう、俺は日本と言う国を嫌ってはいなかった。いや、今でもそうだ。時に危険な性格ではあっても、基本的に理想主義者なのだ。日本人は。そして、俺もまた……。

 

 ヘリは屋上に着いた。同時に、作戦開始の合図が発せられる。俺はラペリング・ロープを伝い、すぐさま屋上に降り立った。他の仲間も同様だ。さすがに練度の高い部隊を選んだだけあって、誰の動作にも危なげな部分は見られなかった。そして嬉しいのは、俺もまた彼らと同じということだ。

 仲間の数人が周囲を警戒する。他の何人かは――この中に俺も含まれる――屋上から下階へ通じる鉄製の所々錆びたドアを、そしてそれの付いた小さな小屋のようなコンクリート製の部屋を囲み、ライフルを構える。このライフルはIMI製、つまりイスラエル国産のものだ。しかし、もうすぐで日本製のものに置き換わると聞いた。日本が輸出用に生産しているものは、劣悪な環境でも作動するかどうかに重点を置かれて作られており、イスラエルは軍のライフルの半数をそれで補っているのだ。このタフな(日本らしからぬ)設計は、そういう環境の多い中東、東南アジア、アフリカを意識して開発したからに他ならない。そしてその高性能の割りに(比較的)低価格なライフルのおかげで、イスラエルでは日本製銃火器に対する信用が出来上がっていた。そして、日本が自衛隊に給与している輸出用とは違う安からぬライフルを特殊部隊用に購入しようという話になったそうだ。まったく、商売上手なことだな。

 残り四人はドアの正面に移動し、背中のバックパックにつけてある対戦車ミサイルを抜く。アメリカ製だ。照準気を起こし、それを構えた。狙うはその小さな部屋のドア周辺。

 屋上のドアに対戦車ミサイルを放つ。周囲の壁、向こう側で待ち構えていた見張りともども吹き飛んだ。俺たちは素早くそのぽっかりと開いたがらんどうな空間の中へ滑り込んでいく。DNAが俺に告げていた。ここから先は殺戮地帯(キリングフィールド)だ。

 俺たちの得意な戦場は、狭いところだった。テロリストとの戦いは、ほとんど市街地で発生する。建物の中を舞台にすることも珍しくない。だから、こういう場所での戦闘方法は心得ていた。最低二人、出来れば四人で行動する。曲がり角、部屋の中、進む前にしっかりと確認をするのだ。一人が覗き込めば、もう片方は必ず援護できる位置にいなければならない。部屋の中を掃討するなら、まず二人が突撃し、部屋の円周に添って敵に銃撃を加えながら進撃すると、残り二人が入ってきてカヴァーするのだ。

 俺たちはそんな風にして、俺が怨んで已まない男が踏ん反り返っている部屋まで進んだ。出会った者は皆殺しの勢いだった。

 目標の部屋には鍵が掛かっていた。俺は迷うことなくバックパックから対戦車ミサイルを取り出し、後ろの仲間にバックブラストを注意した上で、照準を合わせてドアを破壊して。仲間数人が素早く突撃する。

 部屋の中には直属と思われる護衛が四人。全員拳銃で武装していた。尖兵を務めた仲間が撃たれた。しかし、ほとんどダメージを負わなかった。

 護衛が持っていたのは、ソ連製の安物拳銃マカロフだった。九ミリ口径だが、パラベラムより弱い銃弾を使用する、小型の拳銃だ。威力が高いとは、お世辞にも言えない。

 そしてイスラエル政府が調達し、俺達に装備させたアメリカ製の特殊部隊用防弾着は、そんな弾丸を通すほど弱くなかった。それどころか、衝撃さえ分散させ、体全体で受け止めれるようにしてくれた。

 逆に、俺たちの反撃は激しかった。護衛の男達にライフルを向けると、何のためらいも無く引き金を引いた。五・五六ミリNATO弾の掃射を、物凄い勢いで受け止めた護衛の男達は、原形を留めぬほどに引き裂かれ、ただの肉塊に化して地に堕ちた。勿論生きてなどいない。

 俺が怨んで已まなかった男……俺の親父を殺した組織の首領は、どうということの無い子男だった。丸々と太った豚のような奴で、俺たちを見て涎を垂らしながら必死に命乞いしていた。イタリア製スーツの股間の部分は湿っている。

 事前に確認した結果、俺はしっかり知っていた。親父を殺すよう命令したのは、間違いなくこの男だ。

 しかし、俺がその男を見て抱いたのは、また別の種類の怒りだった。

 男は、どう見ても裕福そうだった。丸々太り、立派な服を着ているのがその証拠だ。

 ならば、何故テロなどして自分の主張を訴えていたのか?イスラエルに圧迫されている、多数の悲劇を味わってきた同情すべき民衆のためなのか?

 いや、違う。違ったんだ。

 男がテロをしていたのは、全て、金のため以外の何物でもなかった。この男はイスラエルだけでなく、米帝の手先などという調子の良い言葉を使い、サウジやUAEにも次々にテロを起こしていたのだ。いや、起こさせていたのだ。この男自体は、命令以外実働的な行為は何もしていない。金の計算くらいだ。

 そして犯行声明を出し、所詮看板でしかない主張を掲げ、無理な要求を行うのだ。その時、そこはかとなく裏の交渉を提案する。そして、これ以上テロを起こして欲しくなければ金を遣せと言うわけだ。こいつはその手口で次々に金を集め、それを自分のために使っていた。

 俺が何に対してそこまで怒ったかと言うと、この男が、この男の言っていることを本気で信じている青年や少年を騙していることだ。あらゆる悪行を彼ら、確信犯的に行わせ、挙句の果てに自爆テロで殺し、一切の還元を行わない。イスラームと言う、本来ならば穏健的であろう宗教を捻じ曲がった解釈で危険なものに変え、その思想を幼少より植え付け、自分達に対して絶対服従を誓わせる。

「クズめ」

 俺は短く男に言った。日本語で言ってやった。男はそれを聞いて、さらに恐怖を露にしていた。別に日本語が解ったわけではないのだろう。ただ、気迫が伝わっただけだと思う。

 こういう脅しなどの行為の場合、むしろ意味の理解できない言葉の方が、純粋な恐怖を伝えられて、効果的なのだ。拷問の時によく用いられるテクニックだったかな。俺は思い出した。

「少しは、お前のために死んでいった人のことを思え」

 男にライフルを向け、引き金を引いた。単発(セミオート)で、先ずは右足。着弾して、血が吹き出す。男は悲鳴を上げた。

「殺すんなら、お前と敵対する奴を殺りゃいいだろ」

 左足の踝を砕く。悲鳴が続く。煩い。俺は男の前に行って、顔を蹴り上げた。悲鳴が止まる。

「俺の親父が、お前らに何をしたんだ」

 次は右手。空薬莢がエジェクトポートから排出され、地に落ちるまでの瞬間が、やけに長く感じられる。

「何もして無いだろ。そうだろう」

 左手。うめき声のような悲鳴。くそ、苛々する。

「何とか言えよ!」

 俺は男の腹を蹴った。男はびくりと震え、激しく嘔吐する。くそ、汚らわしい豚野郎め!

 俺はその時支離滅裂なことを言っていただろう。少なくとも、男が俺の親父のことを知っているとは思えない。しかし、俺はその時怒りこそが表面に出ていた。そしてそういう状態の人間に対して、理性的な行動を求めるほど無駄なことは無い。

 思い切り冷たい目で見ていると、男は僅かに頷いた。

「そうだな。じゃあさぁ……」

 ライフルのセレクターを単発から連発(フルオート)へ変える。マガジン残量は後十二発。充分だ。俺は男の股間の辺りに銃口を向けた。

「お前は何の意味も無く同じを殺したわけだ」

 男は再び頷く。

「なるほどなぁ」

 俺は惚けたようにして、上を向いた。親父がいるはずの場所だ。多分、お袋と一緒に暮らしているんだろう。俺もいつかそっちへ行くよ。俺は目に見えない親父に言った。でもな、今すぐじゃないんだ。その代わり、こいつを送る。土下座でも何でもさせてくれ。

 親父が復讐なんて喜ばないと言うことは、なんとなく解っていた。死んだものが望むのは唯一、この世に残してきた者の幸せだけだ。そして復讐とは、何かを奪われた者が奪った者に私的制裁を加えるという、最高レベルの自慰行為にすぎない。手淫なんかよりよっぽど気持ちいいそれだ。死んだもののために復讐をする?笑わせるなよ。復讐をして、自分が満足したいだけだろ。俺は復讐をしたと言う達成感を得たいだけだろう。天国のあの人も喜んでいると言う妄想で、自分の心を暖めたいだけだろ。

 くそ。だが、悔しいのは……。

 そう、俺もその自慰行為の誘惑に勝てなかったことだ。

 

 引き金を引いた。同時に、銃口を上に移動させていく。一発目の弾丸は睾丸と陰茎を砕き、二発目から四発目は丹田を突き破り膀胱やその他をかき混ぜる。五発目、六発目、七発目は腹部を貫き腸を捻じ切る。八発目、九発目は脊髄を破壊する。十発目は喉を掻き分け、十一発目は顎を砕いた。そして十二発目で、頭部に命中する。小脳、大脳共にかき回し、脳髄、血液と一緒に頭の後ろから弾き出した。

 体が真っ二つに近くなり、血が吹き出す。部屋に敷かれていたトルコ製らしき絨毯が汚れていく。男の血は赤かった。どんな汚い人間でも、血の色までは変わることは無い。悔しいことに。

 だが、死んだ。まず間違いなく。

 俺はそこで始めて、周囲を見回す余裕が出来た。近くにいる仲間は、褒めるでも咎めるでもなく、ただ立っていた。建物内にいる人間は、殺そうが生かそうがかまわない――つまり俺たちは、作戦前に生殺与奪の権利を全て与えられていたから、この場でこの男を殺してしまっても一切お咎めは無い。

 それなのに、いや、だからこそ、仲間が全く無反応なのは不思議だった。普通は、怒るなり同調するなりするのではないだろうか?

 だがその疑問も、俺と仲がよかったフランス人の男が声をかけてくれたことから、解決した。

 そいつは気楽な調子で話しかけてきた。いつも教導的に用いてくるフランス語ではなく(こいつのおかげで俺は今、ある程度のフランス語が使えるんだ)、現代ヘブライ語だ。

「何があったか知らないけど、よかったな」

 ああ、そうか。俺は理解した。

 つまりあいつらは、あいつらなりに気を遣ってくれていたのだ。復讐が果たしたいなら存分に果たせ。なるほど、流石故郷を追われて二〇〇〇年間も彷徨った民族だな。俺は感心した。

 その場にいた仲間の四分の三はユダヤ人だった。

 

 復讐を果たし、俺は義務から解放された。

 俺は直ちにイスラエル軍特殊部隊を辞めた。いろいろな人から引き止められたが、ある程度治安も落ち着き、戦争の危険も去ったことを理由に除隊した。俺は日本へ帰った。

 そこで……そう、日本に帰ってわかったことこそ、自由の重さだった。

 目標が無いというのは、地獄に近い。無気力、無気力、無気力。何をやるでもなく、一日を過ごす。そんなもの、死んでいるのと同じだった。俺はあの時、そう、復讐を果たした時に死んだんだ。

 あの時、死体の前で俺に掛けられた言葉を思い出す。

―――よかったな。

 本当にそうか?本当にそうなのか?見る人が見れば、前の俺の方が輝いていたはずだ。何か一点に向かって突き進む人間は、それだけで、多大なエネルギーを放出するのだから。

 目標を果たし、腑抜けてしまった俺。あいつを殺すために、多くの命を奪っていた俺。いったい、どっちの俺が、“良い”俺だったんだろう。

 しかし俺はその後、新たな目標を見つけることが出来た。自分を敢えて縛りつけ、自由を制限することで、前に進みやすくしたんだ。

 自由とは、レースで言えばつまりコース。あまりに多すぎると、何処に行けばいいのか迷ってしまう。しかし、ある程度それを制限し、いけるコースを決めることで、自分に最も合うコースを見つけやすくなる。そういうことだ。

 完全に自由な人間なんて、死人だけだ。そして、死人には何も出来ない。全ての自由と代償に、自分で自分を動かすことすら出来なくなったんだ。そして、俺は死にたくなかった。だから敢えて不自由を受け取った。

 俺に第二の人生を与えてくれたのが、女性と、第4小隊だった。

 

「ああ、そうだな」

 哲也は言った。そうだ、こいつが俺と同じようなものだとしたら、俺が立ち直れた要因のうち、片方は得ているんだ。

 そして、後は誰かの協力だろう。それさえあれば、こいつはまともな人間になれるはずだ。ならば、俺がその協力者になって、また、他の協力者を見つけてやるしか無いだろう。

 理由?そんなの決まっているさ。

 それが、俺が自分の幸せに対して支払う対価だからな。

「ああ、お前は賢いよ」

「なんだか、莫迦にされている気分だ」

 哲也は笑って、時計を見た。

「さて、町にでも行くか?」

「結局そうなるのか?」

「なるね」

 質問に質問で答えた素雪に、哲也は断言した。

「なんだって、暇だろ。それに、可愛い子がいるかもよ。ヴェトナムの伝統衣装ってなかなかなんだぜ」

「はぁ……」

 哲也が椅子から立ち上がった。素雪もつられてベッドから。適当に外出の用意をして、ドアに向かった。オートロックなので、カードキーを取り忘れないように注意しないとな。哲也が言った。当然だろう。素雪は答えた。

 そうだな。哲也は思った。

 こいつは、巧くやれば大丈夫だろう。俺だって立ち直れたんだ。こいつが、まともでいられないはずが無い。こいつは、俺なんかよりずっと賢いのだから。

 だが哲也は、自分が有能な同僚にして大切な友人――素雪のことを考える上で、大切なことを知らないことに気付かなかった。

 哲也は戦争に身を投じている時、復讐を目標としていた。しかし彼は、素雪が今現在、何を目標にしているか全く知らなかった。

 

 

 

 

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