2017年 72

 

 日本人たちは、日に日にその狡猾さを増していた。

 今回もそうだった。

「ちくしょう!逃げ切れん!」

 李艦長は叫んだ。彼の言葉は現実を端的に要約していた。

 《北》の工作班操る特務船1205号は現在、日本海を疾走していた。速度は、時速四十ノット以上。全長十メートル程度の船に不釣合いなほど強力な、スウェーデン製のエンジンを載せた結果だった。

 だがその速力も、敵に比べれば満足とは言い難かった。そう、敵――日本人が持つ、世界最高クラスの艦艇に比べれば。

 日本には、海上保安庁という名の沿岸(コースト)警備隊(ガード)と、海上自衛隊なる不思議な名を持つ海軍の、二種類の海上戦力がある。この二つの戦力(軍隊と言ってもいいかもしれない)は、今まで、不審船の取締りに関しては実に無関心だった。海上保安庁は警察と言う組織の縛りが強すぎるために積極的な行動が打てず、海上自衛隊はその組織の性格故、武力行使に踏み切ることが出来なかった。

 だがしかし、今現在状況は全く変化していた。

 

 どうして日本が変わったのか。そんなのは決まっている。戦争以外にありえるだろうか。

 戦争と言う、人間を変えてしまうのに充分な現象は、国をも変えてしまった。日本はあの第三次世界大戦の後、その性格を全く変化させていた。それは、以前日本の性格を変化させた第二次世界大戦の前とも違う、もっともっと機会主義・利益主義的なものだった。

 日本人は極端から極端へ走ることで知られる民族だが、まさかここまで変化するとは。世界中の、日本を良く知る者は皆そう思った。しかし、不思議な話ではない。第二次世界大戦の前と後、国民はほとんど同じなのに、口から出る言葉は正反対になってしまっている。それから考えれば、少なくとも、利益優先主義と言う大前提に変化が無い分、今の日本人の変化は理解することも出来た。

 彼らは、全ての物事を利益不利益で見るようになってしまった。まるで欧米諸国のような性格になってしまったと言うことだ。いや、はっきり言ってしまえばそれよりもずっと性質が悪い。

 欧米諸国は、確かに利益優先主義だが(それには、欧米諸国、特に欧州諸国の歴史に深い関係がある。常に占領してされての毎日を繰り返していたあの辺りの民族は、国家間の関係は相互利益によって成り立つということを知り尽くしている)、そのあさましさは欧米諸国共通の宗教――キリスト教によってある程度抑制されている。金貸しを嫌い愛と平和を説いたキリスト教の精神は、欧米諸国が完全な利益優先の下卑た国家になるのを防いでいた。もっとも、その為にユダヤ人やアラブ人は苦労していたのだが、それに対して罪悪感を抱くべき人物は、既に二千年以上前に歿している。

 だが、日本人にはそれはない。世界でよく知られているように、日本人は宗教に対して祝日と娯楽以外の価値を認めていない。国のあちこちに神殿が――それも仏教、キリスト教、そして彼ら固有の宗教である神道の神殿(彼らの言葉で最初を寺、次を教会、最後を神社と呼ぶ)が林立していることからも、それは解る。そして恐ろしいことに、その神殿に仕える者でさえ、日本人的な宗教に対する寛容さ(というか、無分別、無関心の類)を持っているのだ。

 そして、宗教に対して固執しないと言うことは、すなわち、利益優先主義においてその優先の度合いを食い止めるものがなくなるという事実を指す。

 もちろん日本にも、宗教以外に利益の優先を適度に抑制する文化が無いというわけではない。それは、恥と呼ばれるものだ。

 しかし、これは欧米の宗教に比べて基準が曖昧であると言う弱点を持つ。日本で育ったものにならば理解できる(一時期はそういう者の中にも理解できない者がいたが、教育の徹底と罰則の強化から、それを理解できぬものは少なくなっている)恥の文化は、欧米人から見れば、その基準が解りにくいのだ。

 だからこそ、日本人は理解ができないと言われる。

 しかし、その行動理念は以外に単純だ。彼らが守るべきルールは、基本だけ取り出すとこうなる。

 

―――個人の付き合いは情で行い仲良くなることを目的とする。

―――集団の付き合いは金で行い利益を得ることを目的とする。

 

 つまり日本人は、個人で付き合う分には良い友人だが、集団と付き合う分には気を付けろ、と言うことだ。ロシア人と似ているとも言える。彼らは民族的にはお人よしだが、集団になると驚くほど嘘吐きになるのだ。

 だが、日本人にはロシア人と決定的に違う部分がある。それが、個人と集団の境界が曖昧化しやすい点である。

 つまり、日本人は基本的に上のような基本原則を守って、自らが恥をかくことを避けようとするが、時には上の基本原則に反することも平気でするということである。それは、今これをやっても自分の名誉が穢れないと考えられる場合に行われるか、今これをやったら自分の名誉を傷つけると思われる場合に行われる。

 つまり、例え個人の付き合いでも、今は利益を優先しても名誉を守れると判断すれば、平気で友を搾取の対象にするし、逆に集団の付き合いでも、いま利益を優先すれば名誉を傷つけると判断すれば、情に動かされる判断を採用する場合もある。

 この、名誉が守れるか否かの判断は、実に日本的で曖昧だ。これが、多くの日本人以外の民族が日本人のことを意味不明と称する理由になっているのだ。

 また日本人は、その名誉を守るため、あえて矛盾を受け入れることすら可能としている。原則の追求と現状の維持、キリスト教社会における最大の問題点すら、彼らにかかればあっという間に解決されてしまう。前に素雪が考えていたとおり、表面的には前者を採用するような素振りを見せ、本質的には後者を採用するのだ。

 これは、日本人の社会運動によく現れる。二十世紀中盤なら学生運動、二十世紀終盤から二十一世紀にかけてならデモ行進。学生運動に参加する人々は、参加する時こそ大声を張り上げ、自分の全てを投げ捨てんばかりで主義主張を訴える。しかし、実際にそう考えているのは全体の一割にも満たない。後大勢は、暇つぶし的に運動に参加しているにすぎなかった。平日になれば学校に行き勉強をして、大人になれば、彼らがあれほど批判していた大人の社会に何の躊躇も無く溶け込んでいく。

 デモ行進は、もっと短絡的だ。休日になると、やはり暇つぶし的にデモに参加し、平日になると学校に行くか会社に行く。それだけだ。

 二十世紀初頭、ニーチェは著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で、私は暇つぶしに読書するものを憎む。読むということを腐敗させると述べている。ならば、だ。暇つぶし的に主義主張を繰り返すものは、当然、その主義主張を腐敗させるだろう。

 共産主義が、そして、日本における平和主義が腐敗していった理由はここにあるのだろう。

 だがしかし、だ。戦争はそれらを全て変えてしまった。

 

 そう、あの戦争こそが全ての現況なのだ。李艦長は思った。

 あの戦争の後、日本人は武力の行使に疑問を覚えなくなった。現実が、理想を淘汰した結果だった。今や日本に存在する世界有数の二つの海軍は、その力を如意に発揮している。

 

 後方から海上保安庁の巡視船が迫ってくる。海自に対抗するために独自に開発したウォータージェット推進の小型艦だ。

「後方より『うみかぜ』級高速巡視船接近!」

 見張り員が報告してくる。李艦長は近くにいた、彼の国の軍隊に属していない男に聞いた。

「あなたは、あの船のことを知っているか?」

 丁寧さと懐疑が入り混じった声だった。しかし、男は気にした様子も無い。その巌のような、日焼けした顔に微笑を浮かべる。

「ええ。もちろんですとも」

 彼は目を閉じ、教師の前で自らの勉学の成果を語る生徒のような表情になった。

「高速巡視船『うみかぜ』。海上保安庁の最新鋭巡視船だ。排水量およそ二〇〇トンの小柄な船体だが、艦首には七六・二ミリの速射砲、後部には対艦攻撃可能の発展型シースパローミサイル(ESSM)用のコクーンランチャーを備える。海上自衛隊の『はやぶさ』級高速ミサイル艇をそのまま海保仕様にしたような艦だな。最高速力も、公称では同じ時速四十四ノットになっている。もちろん、日本人が本当のことなど言うはずはない。本来はもっと出せるのだろう」

 李艦長は彼の言葉を面白くなさそうに聞いていた。彼は続けた。

「追記するならば、日本が開発した一四式重機関銃――アームスーツ搭載用の、一二・七ミリチェーンガンだな――とやらが二機。加えて艦尾には二十ミリヴァルカン・ファランクス。そして、世界最強レベルの電子戦闘能力。はっきり言って、小国の海軍ならば充分主力艦として扱える代物だ」

「それはつまり」

 李艦長はすこし声を荒げていった。そこで言葉を切ったのは、部下に面舵を命令したからだ。舵を取っていた部下は、復唱しつつハンドルを回す。船はゆっくりと進行方向を横にずらす。こういう高速航行中に急速に針路変更すれば、転覆してしまうからだ。

 李艦長は無事針路変更を終えたことを確認し、再び隣を向いた。

「わが国のことを言っているのか?」

「例えば」

 李艦長の問いに、彼はおどけた調子で返した。

「君の国にあれがあったとしよう。君が艦長だ。どう思う?」

「最高だな」

 李は呟くように言った。

「一度でいいよ。あんな船を操ってみたい」

 そういって、自分たちを追って来る艦を見た。李の艦を追って、進路を変更する。ずいぶん高速で、しかも急旋回なのに全く転覆する様子は見せない。全幅が広く、復元力が高いからだ。その全幅をものともせず、船を高速で推し進めるウォータージェットは三機の日本製ガスタービンエンジンから出力を得ている。

「高性能な電子装備。乗組員のことを考えて設計された船室。仮眠が出来、軽食の作れる艦内。強力な武装。それでいて乗り心地は悪くなく、高速で航行する」

「イージス艦に比べれば、アリとゾウにも等しいが?」

「あんなのと比べるな。夢の中にも出てこないんだ」

 李は怒ったように言った。本当に、あんな船に乗ってみたよ。イージス艦。最高だね。妄想すら出来ない! 李は心の中で、叫ぶように言った。

 彼の隣の男は、李の様子を見て言った。

「しかし、現在は敵だ」

 李は現実に引き戻されるような感覚を覚えた後、ああ、そうだなと呟いた。

「我が艦にも武装が無いわけではない」

「そうだな」

 男は周囲を見回して言う。

「RPG7、十三ミリ機関銃。それと、対空ミサイルか?」

「ああ」李は答える。

「使い所が無いな」

「全くだ」

 李がそう言ったとき、後方で巡視船の船影が煌いた。数秒経って、艦の前方に水しぶきが生ずる。

「敵艦発砲!」

 見張り員が悲鳴に近い声で叫んだ。

「威嚇射撃だ」

「すぐに当ててくるさ」

 李の言葉を受けて、男は、現実と未来を要約した。海自も海保もその組織の性格を変えてからというもの、敵に対して容赦すると言う行為に懐疑的な思いを抱くようになっていた。敵に停止の意図が見えなければ、躊躇することなく当ててくる。つまり、沈むしかないということだ。

「どうする?」

 李が男に言う。すがるような響きは無い。既に、何かと決別したような感覚だった。

「逃げるんだな」

「無理だ」

 李は即答した。人並みの虚栄心など、吹き飛んでいた。見栄?そんなものがなんの役に立つと言うのだ。

 しかし、男は極めて冷静に答えた。

「大丈夫。我々は助かるよ」

「何故そんなことが言えるんだ」

 今度は明らかに怒気を含んだ声で言った。

「艦長、我々の現在位置はわかるか?」

「おい、少尉!」

 男の言葉に対して、艦長は通信設備、レーダー設備を管制する少尉を呼ぶ。顔が青白くなっていた彼は直ちに答えた。

「は!現在敵の強力な電波妨害を受けているため、通信・レーダーは一切使用できません。しかし、GPSだけは起動します」

 当然だろう。李は思った。敵だって、GPSを使っているんだ。ただし、我々のとは精度がまるで違う軍用品だがな。

「現在位置は?」

 李が訊く。少尉が素早く答えた。その答えを聞いたとき、李は、男が言わんとしていることが理解できた。

「そういうことか」

「ああ」

 男は頷く。李の表情が変わった。さっき決別した何かと再開したらしい。

「よぉし、進路そのまま。全速前進」

 彼は必要以上に声を張り上げ、部下を督戦した。

 

 海上保安庁の巡視船で最も新しい部類に入る<うみかぜ>級高速巡視船は、海自の介入よりも早く、不審船――いや、工作船を追っていた。

 うみかぜ級は、海保にしては強力としか言いようの無い武装を施された、有力な巡視船だった。当然だった。この艦の設計は、海自の一世代前の高速ミサイル艇を元に作られていたのだ。艦首の七六・二ミリ速射砲は海自のフリゲート艦と同じ物だし、後部のESSM用のコクーンランチャーを対艦ミサイルに取り替えれば、大型艦すら撃破出来た。

 そのうみかぜ級巡視船四番艦<みなみかぜ>艦長鶴舵(つるだ)直路(なおみち)二等保安監は、みなみかぜの艦橋から双眼鏡で海を見ていた。正確には、その海の上を行く工作船を、である。不審船から工作船というより直接的な表現に名称が変わったのは、先ほどのことだ。

 鶴舵は双眼鏡を目から外し、今度は視線を空を向けてから言った。

「空は曇天。絶好の工作日和だったのだろう。もし我々がいなければ」

「やつら、未だに日本がパスポート要らずの国だと思ってるんですかね?」

 鶴舵の言葉に、航海長の皆縞一等保安正が応じる。如何にも怜悧そうな、切れ目の面長な顔だ。

「だろうよ」

「再教育が必要ですね」

「ああ。だが、そのためには急いで確保せねばならんな」

 鶴舵はそういうと、後ろの通信室にいる三等保安正に訊いた。

「おい、海自は何と言っている?」

「はい。今艦を出したが、既に無駄だろう、とのことです」

「? どういうことだ」

 鶴舵は不思議そうな顔をして言った。皆縞は海図を眺め、納得した様子だった。

「なるほど」

「どういうことなんだ?」

 納得しかねる顔をした鶴舵が、皆縞に訊く。皆縞は海図を指差しつつ、答えた。

「既に境界に近いのです」

「第八管区との、か? 問題ない。彼らも出動しているし、こちらも管区内まで侵入する許可を得ている」

 鶴舵は海図の、第七管区と第八管区の境界をなぞりながら言った。しかし、皆縞は横に首を振った。

「そこではありません」

「と、言うと?」

 皆縞は鶴舵がなぞったものとは別の“境界線”をなぞる。それは国境と呼ばれるものだった。対馬、竹島をこちらに取り込む、日本海に引かれた陣地分断線。

「ここから先は、韓国領海です」

 鶴舵はうめき声を漏らした。罵り声に聞こえないこともなかった。

「じゃあ、なぜ海自は……奴らには治外法権があるだろうに」

「韓国に海自を? やめてください。これ以上莫迦なことを叫ばれるのはごめんですよ」

 皆縞は手厳しく言った。彼の言葉は、現代の日本人の彼の国に対する平均的な感想を表してもいた。頼むから、そろそろ黙ってくれ。いい加減現実に気付いておくれ。いや、現在に目を向けてくれ。こんな感じだ。

「まぁ、そうだがな」

「それに、韓国領海に逃げ込んだところで、奴らの運命は変わりませんよ。韓国海軍は無能ではありませんから」

「いや、それはどうかな」

 鶴舵は皆縞の言葉を否定する。

「と、言われますと?」

「大戦で、奴らの海軍は多大な被害を被ったな」

「ええ。新鋭の駆逐艦をはじめとする、主力艦四隻の沈没および大破。及び支援艦――って我々は言ってますけど、向こうでは海軍の艦艇の多くを占める艦ですね――数十隻の沈没、大破、中波。これらほぼ全てが潜水艦および攻撃機によってもたらされたものです。甚大ですね。ちなみに、我が国はこれらの被害を『優秀な対空能力・対潜能力を有していたはずの韓国軍は、航空機および潜水艦による攻撃で主力艦艇の多くを失う大打撃を受けた。我が国はこうならないよう、もっと多くの、質の高い艦艇が、航空機が必要だ』と報道し、海自と空自の予算を大幅拡大させましたね。海自はイージス艦を大量に、果ては空母まで持ってご満悦だし、空自は新戦闘機の開発予算を通して、日本中の基地を補強しました。

 まぁもっとも、そのおかげで我が海保も、新型の艦艇を手に入れられたんですけどね。それに関しては感謝すべきだと思いますよ。ミサイル装備のコーストガードなんて、世界中探しても稀でしょうから」

 彼の言うとおりだった。大戦後、自衛隊は今までの二倍以上の予算と人員を手にし、その勢力を大きく拡大していた。武器輸出が解禁されたことによる量産効果の兵器関連に対するインフレ相殺が、自衛隊の相対的な予算を増やした。質の高い兵器を今までよりも安くそろえることが可能になった自衛隊は、難民の流入によって再び増加しつつあった失業者を大量に食うことによって人員を増やした。

 そしてその恩恵は、警察や海保にも及んでいた。警察庁は機動隊に対して装甲車の類を導入していたし、公安(正確には内務省)は新たに創設された第11課“局地特別機動隊”に自衛隊並みの重装備を与えていた。そして海上保安庁は、海自の護衛艦に近い、強力な巡視船・巡視艇を手に入れていた。

 とは言っても、もちろん、まるまる自衛隊と同じ装備にはしない。求められる能力が違いすぎるからだ。機動隊が導入した装甲車は、ちょっとした凶悪事件に対処できる程度のものだし、海上保安庁の巡視船・巡視艇も、うみかぜ級のような高速小型のものが主力だ。一般民衆やテロリストを相手にする機動隊がスイス製三十五ミリ機関砲を装備した歩兵戦闘車を持っていても使い道が無いし、不審船や不法入国者を相手する海保が排水量八〇〇〇トン以上で一二七ミリ砲や艦対艦ミサイルを主兵装とするイージス艦を持っていたところで無駄が大きすぎるからだ。

 

 例外は、局地特別機動隊だろうか。彼らはアームスーツを装備して、対戦車ミサイルや対空ミサイル、二十ミリ機関銃など、自衛隊と見紛うばかりの重装備を持っていた。しかもその上、装甲車を利用して高い機動力を持っている(アームスーツに機動力は無い。あるのは運動性だ)。ちなみに彼らは俗称として親衛隊と呼ばれる。首都圏を主要行動範囲としてその重装備を揮っているからだった。まるで皇居を守っているようだ。そういうことだった。しかしながら、そういう行動範囲を持つ彼らは一度だけ、海外へ派遣されたことがあった。ただし、後方で遊ばされていただけだった。イラクのとき日本政府が使った“非戦闘地域”などというような妄言が原因ではない。彼らのあまりの重装備と攻撃的な性格から、日本政府、そして現地政府が殺しすぎ(オーヴァーキル)を恐れたのだ。

 公安部のナンバーが8課以降、つまり近年設立された組織は、その多くが(日本に敵対するものにとって)非情に危険な存在である。公安9課は少数精鋭ながら、対テロにおいてあらゆる面で最高レベルの能力を持つし、公安12課も同様。両者の違いは、前者は対テロを掲げ、国内で攻性な防壁としての機能を働かせているが、後者は世界中におよぶ情報網で、内閣情報室や防衛省情報本部に劣らぬほど情報を収集し(というか、今挙げた三つの組織は情報を交換し合っている)、危険を見つければ自前の部隊(当然少数精鋭)で場所を問わず素早く破壊する、9課よりさらに攻性の組織だった。

 とにかく、大戦の影響により、日本の防衛力は、戦前の数倍に上がっていた。情報収集、後方支援能力の向上は、実質戦闘部隊の戦力向上を倍増させるからだ。

「よく知っているな」

「それは、どれに対する知識におっしゃられているのですか?」

「全部だ。韓国海軍の有様、我が国の状況、それによって引き起こされた『我々』の変化」

「ええ。勉強しましたからね」

 皆縞はなんでもないように言う。鶴舵は渋い顔をした。

「あの、艦長」

 後ろから、通信長がおずおずと話しかけてくる。ここ最近、海保の通信能力は向上傾向にある。電子戦闘能力まで備わり、それを操るのも通信任務を行うものがしなければいけなくなったからだ。

「何だ?」

「韓国海軍から通信です」

 鶴舵はなにやら口汚く罵った。皆縞は嫌そうな顔をした。

 もう結構な時間チェイスを続けている工作船の前方に、重厚な船影が見えた。間違いない。軍艦だ。

「韓国海軍ですね。もう出張ってきたみたいですよ」

「おい、まだ我が国の領海だろう」

「いえ、ほら、あの辺り。あの韓国艦のすぐ前の辺りが国境線のはずです」

 鶴舵は韓国艦――おそらく駆逐艦クラス――を睨みつけた。

「まぁ、諦めてください」

「諦める? あの野郎どもめ。あんなの、領海侵犯と同義だ」

「竹島を占領していないだけマシですよ」

 竹島を占領していた韓国軍は、大戦中、戦火が激しくなるにつれ内地に帰ろうと輸送艦に乗り、敷設された機雷に当たって全滅していた。機雷は韓国軍が敷設したものであった(なのに、韓国内では何故か日本が敷設したことになっている)。

「国際的な国家としては当然だろ」

「まぁ、そうなんですけどね」

 ここで言っても意味が無いことですね。皆縞はそうは言わなかった。出世するには、それなりの人間関係も必要となる。

「くそ。機関長! 機関停止、ジェット逆噴射。航海長! 面舵一杯。艦を停止させろ」

 鶴舵は素早く指示を与える。こういうときの彼は、実に同に入っており、頼もしげだ。実際、艦長としての彼は有能としか言いようがなかった。艦は勢いを弱めながらカーブし、惰性で九十度方向転換した。その後、間もなく停止した。

 みなみかぜ艦橋で多くのものが不平不満を漏らしていたまさにそのとき、韓国海軍は工作船を追い詰めていた。

「なぁ、皆縞」

 鶴舵は完全に地位を投げ捨てた態度で皆縞を呼んだ。

「なんです、艦長」

 皆縞は丁寧に応じる。

「何であいつらはあんなに練度が低いんだ?」

「ああ、それですか」

 皆縞は双眼鏡で、えっちらおっちらと工作船を追っかける韓国海軍駆逐艦を見ながら言った。

「韓国は、大戦で海軍に大被害を受けたじゃないですか。それを再建する際に、普通は、ベテランをあらゆる部隊の中核に散らして、それに新兵を指揮させるんですが、奴さん、ベテランを全部国境地帯の沿岸防御にかき集めたんですよ。何でも、仮想敵が増えたからって」

「まぁ、理解できないでもないが……」

 鶴舵は、しかしなぁと、もし自分が韓国軍総司令官……じゃなくて、国防省長官だったらどうしていただろうかと考えた。そして、そんな役柄御免だという、仮定と全く関係の無い結論に至った。

 要するに、何をどうしてもまともなことは出来そうに無いと気付いたのだ。

「韓国海軍もかわいそうだなぁ」

「海自に比べればそうでしょう。聞きましたか? これから新規に作る艦船は、全てイージスにするとかそんなことを話し合ってるらしいですよ。幕僚監部の奴ら」

「冗談だろう」

 鶴舵は双眼鏡で工作船を追いかけながら言った。

「そんなことをしたら、一体いくらの金が掛かるか。うちは米国じゃねぇんだぞ」

「まぁ、今でも、全ての艦がミニ・イージスを搭載していますからね」

 ミニ・イージス。イージス艦の同時多目標追撃システム――つまり、同時にいくつものミサイルを誘導できるという機能を普通のイージス艦に比べてややスケールダウンしたものだ。それ以外の能力――全ての武装、レーダー、センサーをコンピュータで統括し、他の艦とのデータリンクシステムも確立している――はそのままだ。諸外国では充分“イージス艦”として通用する代物である。日本での場合の本当のイージス艦との明確な違いは、弾道弾の迎撃システムが備わっているか、そのあたりだけだ。

「同時多目標追尾ねぇ。まぁ、俺たちには必要ないな」

「ESSMは自動追尾ですからね」

 みなみかぜをはじめとするうみかぜ級巡視船に積んであるESSMは、対艦攻撃用に改造した特別品である。普通の駆逐艦やら巡洋艦やらに当てても全く意味の無い量の炸薬しか積んでいない対空ミサイルESSMだが、その威力は小型の改造漁船――工作船に対して使用するには充分だった。加えて、大きさが小さい。VLSなら一セルに四発も積めるのだ。

「あ、韓国駆逐艦、発砲しましたよ」

「こっちにか?」

 皆縞は苦笑する。

「莫迦言わないで下さい」

「冗談だ。それで、工作船は撃沈したか?」

「いいえ」

 そう言いながら皆縞は、海の一点を指す。鶴舵は双眼鏡をそちらに向けた。

 工作船の周りに次々に水柱が立つ。おそらく威嚇射撃なのだろう。しかし、工作船は全くスピードを緩めず、韓国駆逐艦の背後に回りこんだ。駆逐艦の後部には砲はついておらず、近接戦闘兵装システム(CIWS)も使用しない。おそらく、装填していないのだろう。駆逐艦は図体が大きいだけあって、方向転換に時間が掛かっている。

「何をやってるんだ?」

「どうやら、一隻だけで追いかけていたようですね。いえ、その点は我々も同じですが」

「状況が違うだろ」

 みなみかぜが一隻で工作船を追いかけていたのは、定期巡視中に発見し、増援を待っている暇が無かったからだ。しかし、韓国海軍は違うはずだ。日本の報告を聞き、それから出動したはずだ。ならば、両脇を固めるために三隻で出動することも出来ただろうに。

「そもそも、何で奴らは駆逐艦なんて持ってきてるんだ? 工作船なら、フリゲートかコルベットで充分だろう」

「何か考えるところがあったのでしょう。もしくは――」

「俺たちへの威嚇みたいなものか?」

 皆縞は微妙な顔をしてみせる。私の口からはとても。そんな表情だ。

「まったく、迷惑な話だ」

「同感です。あ、工作船が対戦車ミサイルを発射しましたよ」

「ああ、見えてる」

 彼の言葉どおり、工作船から白煙を引きつつ米粒のように見えるものが韓国駆逐艦へ向かって飛んでいった。一瞬後接触し、爆発する。指向性爆薬――いや、HEATだ。

「RPG7ですね」

「あの、ソ連製の奴か?」

「ええ」皆縞は首肯した。

「対戦車兵器の傑作ですよ。最近威力不足が指摘されてますが、あれだけ簡単な構造で現用MBTでも側面装甲ならば撃破可能ときたら、文句を言うのも失礼と言うものです。その上、あんな風に対艦兵器にも転用可能なのですから」

 最後の言葉は彼なりのジョークだった。誘導装置の無いRPG7を艦対艦射撃で使用したところで、命中はまず期待できない。今回は、距離が非常に近かったのと、運がよかっただけだ。

 それに、威力の問題もある。

「駆逐艦は……ほぼ無傷か?」

「ですね。後部の甲板が少しめくれあがってますが、まぁ、航海にも戦闘にも支障は無いでしょう。いや、多少は浸水するかな?」

 RPG7は韓国駆逐艦に対して、それほどの効果を挙げていなかった。当然だった。本来は、陸上の小さな、だいたいどこが壊れても致命傷足りうる戦車を撃破するための兵器なのだ。冗長性の高い大型艦船に当てたところで、たいした効果は無い。

「まぁ、とにかく沈んでしまうことは無いだろう」

「でしょうね。駆逐艦も、工作船も」

「つまりは」鶴舵が言う。

「ええ」皆縞が返す。

「今回の追跡は失敗と言うことだ」

 

「上手くいったな」

 男は言った。

「ああ」李は軽く返す。

 後ろを見ると、南朝鮮傀儡政権の駆逐艦が遠く見える。後部の方からぶすぶすと黒煙を出しているが、致命傷では無いだろう。

「くそ。どうせなら対艦ミサイル(ハープーン)か艦橋、もしくは砲にぶち込めばよかった」

「欲を言うものではないさ」

 男は対戦車ミサイルを発射した金少尉をなだめた。彼は第556偵察大隊――特殊部隊の所属だった。対戦車ミサイルによる精密攻撃は最も得意とするところだ。

「正面に回り込めば、砲で撃たれた。側面なら、機関銃を装備しているはずだ。最初は威嚇射撃だったからよかったが、あのまま正面に留まっていれば、いつ本当に命中したかわからなかったよ」

「それはそうですが……」

 金は言いよどんだ。彼は、その男に対して恩義があった。かつてイラクに潜入し、イラク内にある、祖国の商人が経営するちょっと特殊なものを取り扱う店に放置された書類を回収する任務を仰せつかった時のことだった。その書類を万が一アメリカ帝国に回収されれば、祖国が拙いことになったのだ。

 男はそのとき、金の小隊(もちろん特殊部隊)に現地に詳しい人物として配属された人間だった。しかし彼は現地に詳しいだけでなく、小隊の中でも有能な人物だった。特に爆破工作と作戦立案に関しては天才的と言ってもよかった。その他の能力は平均的だが、けっして誰よりも劣るわけではなかった。

「た、助かりました」

 唐突に、日本製GPSを眺めていたレーダー員が言った。彼は横にある海図と現在の位置、韓国海軍駆逐艦の予想位置照らし合わせ、自分たちが既に安全圏内に存在することを確認していた。

「韓国海軍を振り切りました! これで、帰還できます」

 男はその若いレーダー員を見て微笑んだ。その男の顔を見て、今度は金が驚いた顔をする。この人、こんな人並みな感情があったのか。

「そうか」

 男はそう言うと、李の方を向いた。

「さて、艦長。私は早速帰還すべきと思うのだが、貴方は?」

 李はその言葉を聞き、職業意識の回帰を感じた。そうだ。仕事は終わった。結局は失敗したが、しかし、生還するという任務は残っている。そして俺には、未来ある我が国の若者たちを殺す趣味は無い。

「ああ、そうだな。よし、進路そのまま。速度を巡航速度まで下げろ」

 李はそう言うと、後ろにある椅子に腰掛けた。異常に疲れを覚えていた。今日初めて椅子に座ったのを思い出した。目を瞑ろうと思ったが、止めた。こんなに乗り心地の悪い船でさえ眠ってしまいそうだった。椅子に座っただけで頭の働きが鈍くなる。

 李はそのいつもどおりに働かない頭で隣にいる男を見た。朝に船に乗り込んだときから、この男はこの場所を全く動かない。直立不動という言葉を、まさに体現している。恐ろしい精神力だと思った。

「すいません」

 金少尉が男に声をかけた。

「本当に、我々と共に戦いはしないのですか?」

「ああ」

 男はきっぱりと答えた。

「俺は、東南アジアの革命の兄弟たちに教育を施さなければならないんだ」

 しかし、その言葉はどこか希薄だった。

 

 船は無事帰港した。男はその後中央軍事委員会の委員長に会い、幾つかの言葉を交わした後、世界最貧に位置するその国を後にした。

 

 

 

 

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