2017年 920

 

「ったく……哲也のやつ……」

 人通りの多い街中、素雪はぼやいた。町の名前は河内。現地語ではハノイと読む。旧ベトナム社会主義共和国の首都で、今は中華民国の一部だ。もっとも、そのかなり外れのほうではあるが。

 戦中、中共がベトナムに進軍した際、約一〇〇万の兵力で以って強引に奪取された土地の一つである。おかげで、現在のベトナムの首都はサイゴン(旧ホーチミン。しかしこの名前になる前は、やっぱりサイゴンだった)に移動している。もともと南ベトナムの首都であったから、首都機能の代行はたいした問題もなく充分に可能だった。

 現在のハノイはここがベトナムの首都だった時代に比べ、人が少ない。理由は簡単。全てこの場所を一時的に占領していた中共の人民解放軍に責任がある。

 ソ連赤軍が一九四五年にベルリンへ進行した際、ベルリンの市民は男は殺され女は犯され、といった扱いを受けた。これは、国境を越えれば何をしてもいいのだという、ソ連の兵士達に施された思想教育による歪んだ常識が引き起こしたものだ。

 このベトナムの首都で起こったのも、似たようなことだった。中華人民共和国人民解放軍はソ連赤軍よりさらに歪んだ教育を受けていた。この事実を知っていれば、中共に占領された土地の住民がどうなってしまったか、想像に難くない。事実、彼らに占領され続けていた内モンゴル自治区、チベット自治区、ウィグル自治区の住民の悲惨さといえば、大人しく言いなりになるよりも戦争をした方がましなこともあるのだと、全ての人間に宣言するようなものだった。

 その町も、記録的な大虐殺から七年経ち、かつての活気を取り戻しつつあった。戦後、まるで廃墟のようだったこの町を思えば、奇跡とも言える復活だ(もっとも、町が廃墟と化したのは、この地を戦場に中共の人民解放軍と戦った米軍にも責任はあるのだが)。

 もちろん、永遠に変わってしまったものもある。町の様相は、この場所がベトナム領内だった頃より近代的になっている。中華民国、つまり台湾の技術が大量に流れ込み、日本企業の工場進出地点になっている。

 しかし、その分かつては活気があった裏路地の、日本人が見たならば商店街とでも称しそうな町は完全に寂れてしまった。無理やりな町建築が原因だった。産業革命時代の英国で、囲い込み運動により職を失った農民が町に流れ込んだように、小さな商店を営んでいた人々は皆、大きなデパート(日本企業が進出したもの)やコンビニ(これも日本企業)、もしくは大きな工場(もちろん日本企業)に吸い取られてしまった。そして、古き良き伝統を大切にしようと、小さな商店を続けようとした者も、それを続けることは出来なかった。大きな商店が立ち並ぶ中、小さな店を経営していくのはあまりに難しい。

 だが、僥倖と言うべきか、小さな商店を続けていけた者もいた。都心部から遠く離れた、村と言うほどでもないが大きな町とも言えないといった大きさの、中程度の町だった。人口は数千人程度。

 こういう場所には当然、市が立つ。しかし、大きなデパートなどはけっして進出してこない。元が取れないからだ。コンビニエンスストアくらいは進出してくるが、そこまで恐怖にはならない。確かに便利だが、店の規模が小さすぎる。むしろ、前々から存在した商店の中に混じって、それらと同じように、雑貨屋として経営しているものもある。

 そういう場所では、今でもなお、過去のベトナムと同じように、民族的な衣装だとかアクセサリーだとかを、手ごろな値段で買うことが出来る。ちゃんとした店ではないので、購入するならばそれなりの鑑定眼が必要とされるが、まぁ、発展途上国にありがちな芸術と危険の香りを味わい楽しむことは出来る。

 素雪が向かっていたのはそこだった。理由は単純だった。

 

「お、素雪。あのデパートは横浜にもあったな」

「当たり前だろ。世界的なチェーンだからな」

 素雪と哲也はハノイの中心街にいた。哲也が行こうといったからだった。素雪は消極的な反対をした。そんな、世界中どこでも見られるような場所に行ってもつまらないと言ったのだ。それよりも、もっと伝統的な風景の残る場所に行ったほうがいい。

 もちろん、哲也は素雪の意見を尊重してくれなかった。

「楽しいほうがいいだろ」

 それが彼の言い分だった。素雪は、その楽しいの基準が人によって差があることを哲也に教えようとしたのだが、徒労に終わった。しかし、確信犯的にも思えなかったので、わざとやっているのかもしれなかった。

 一昔前の東京にも似た高層ビルが、林立とは行かなくても屹立、つまり二、三本は建っていて、建設中のものが多々ある街中。建設会社は中華民国の会社だが、使っている機材はほとんどが日本製だ。戦争と震災で疲弊しきった国土を立て直すために大量に生産された建設機材は、ある程度復興が進むと共に余り始めた。そこで、戦車と同じように中華民国に売却することで、無駄を避け、同時に多少ながら金額の還元を得たのだ。

 素雪と哲也は店が並ぶ中、一番高そうなビルに入った。とはいっても、高さは二〇〇メートルちょっと。東京や横浜で高さが五〇〇メートルに達するようなビルを見慣れている二人にとって、そこまですごいとは感じなかった。

「へぇ」

 ビルの五階、雑貨店が並んでいるフロア。哲也は感嘆の声を漏らした。

「日本とあんま代わり映えがしないんだな」

「そうでもないぞ」

 素雪も哲也と同じように商品を眺めながら、言った。

「ほら、あの変の小道具。確かに日本にも似たような物があるけど、細部はぜんぜん違う。値段もね」

「要するに、こっちのは粗悪品ってことか?」

 素雪は冗談だろうと言いたげな表情を浮かべた。

「国の経済規模を考えろよ。物価の高い日本とは違うんだ。異常に凝り性という国民性でもいい」

「でも、同じメイドインチャイナだぜ」

 哲也が言ったメイドインチャイナはもちろん、ピープルズ・リパブリック・オブ・チャイナ――中華人民共和国ではなく、ただのチャイナ――中華民国の方だ。かつて日本向け製品を大量に生産していた(というか、日系企業が大量の工場を構えていた)沿岸部は、今ではそのほとんどが中華民国の領土だから、日本は安心して工場を稼動させることが出来た。ただし、中国は中共とは違い、貨幣価値が変動する為、かつて程の費用効果(コストエフェクティヴネス)は望めなくなってしまった。

「対象が違う。日本は品質に煩い代わりに金を出す。しかし、国内向けならば品質に気を遣う必要はない」

「やっぱそうだよなぁ」

 哲也は近くにあった置物を取った。いろいろな角度から眺め回してみる。その、ネコが寝ている置物は、確かに細部が荒かった。絵の具は微妙にはみ出していたし、耳が欠けていた。

「ブルジョワジーとプロレタリア、ってか?」

「いや、そんな単純なものでもないだろ」

 と、言うと? 哲也は訊いた。

「日本の物価。何で昔に比べて安いか知ってる?」

「そもそも俺は、何で昔高かったのかを知らない」

「ああ、そうか」

 素雪は呟くように納得すると、その疑問に答えた。

「日本が大国の中では、世界で一番貧富の差が少ないということは知っているな」

「常識だろ」

「まぁな。何でそんな国になったかは……」

「いいよ」

 哲也は素雪の言葉を途中で遮った。

「要点だけを端的に」

「あ、ああ……。了解した」

 素雪は憮然とした表情で答えた。

「つまり貧富の差が少ないということは、搾取対象が無いということだ。例えば日本を抜いて国内総生産(GDP)が高いアメリカ、まるで国民全てが裕福なような言われ方をされているな」

「莫迦を言うなよ」

 哲也は言った。

「アメリカ人の全員が豊か? 豊かなのは白人の一部だけだ。残りはスラムで貧乏暮らし。中共ほどではないが、まぁ、貧富の差が激しい国の一つだな。間違いなく」

「そのとおり」

 素雪は肯定した。

「しかし、その貧相な人々こそ、豊かな白人を支えているのさ」

「ああ、そういうことか」

 哲也は理解した表情になった。

「つまり、そういうことだろ。アメリカとかイギリスとか豊かだが物価の低い国は、スラムのような場所で暮らす困窮すべき使命を背負った人々から搾取した金で、その豊かさと物価の低さを両立している。そうだろ?」

「全くそのとおりだ。そして――」

「日本にはその搾取対象がほとんど存在しない。故に――」

「物価は高くなる」

 最後の言葉を二人で同時に言った。

 つまりは、そういうことなのだ。資本とは、常にその数が限られている。それを片方に寄せてしまえば、もう片方には行かなくなる。平均的に配置すれば、貧相な者こそ無いが、裕福な者も消えてしまう。裕福な人を生もうとすれば、貧相な人も同時に生まざるをえないのだ。

 そして日本にはそれが無かった。だから、世界で一番物価の高い国になってしまったのだ。もちろん、日本の物価が高い理由はそれだけではない。しかし、大きな理由の一つではある。

「それはよくわかった。じゃあ、何で今は昔に比べて安くなってんだ?」

「ああ、簡単だ」

 素雪は軽く答えた。

「つまりは、搾取対象を広げたにすぎない。国内から、国外へとね」

 哲也は日本の貿易を思い出した。明らかに貿易摩擦を起こしかねない額の黒字を各国に対して保っている。外国の資本がものすごい勢いで流れ込んでいると言い換えてもいいだろう。外国に日本国籍の企業が工場を立て、鉱山を建て、プランテーションを建て、ほとんど日本企業間だけで物質を取引し、製品を外国国民および日本国民に売るのだ。外国にはほとんど金を落とさない。

「ふぅん。生産拠点のほとんどを海外に移し、大量輸送で輸送料を減らし、相対的な利益を出す」

「まぁ、そんなところだな」

 素雪は哲也の言葉を肯定した。

「経済共同体と称して少ない税金で工場を建て、日本に逆輸入してブラックボックスを埋め込み、外国に売る。企業の国籍は日本だから、税金は全て日本に入る。その税金を使って、政府が社会福祉とかをするから、税金も以前ほど高くない、と」

「平均給与も上がったしな。いや、これは戦争による経済の活性化が原因か?」

「全てがプラス方向に働いている」

 素雪は遠くを見るような目をして言った。

「戦争で本土を破壊されても、いや、破壊されたからこそ、復旧に資金が正しく使われた」

「ああ、そうだな」

 哲也は頷いた。

「まぁ、お前なら知ってるよな。各地の再建の際投資された資金って、戦前に地方自治体に与えられてた援助金とほぼ同額だって」

「もちろん。作る対象が無駄な道路から有益な建物に変わっただけさ」

「つまりは、金が適所に行っただけだろ」

「まぁな」

 素雪は目を天井にやった。店内を明るく照らしている電灯は、当然日本の企業のものだ。だが生産地は、これもやはり当然中国。中国だと日本の四分の一程度の賃金で同じ物が作れるからだ。 

「政治家の横領も少なくなったしなぁ」

「それも、やはり戦争の影響だろう」

 素雪は歩き出す。別のフロアで商品を見てみようというつもりだ。哲也もついて来た。素雪の行動を批准するらしい。

「日本人は戦争のおかげで、個人の無能が全体にいかに影響を与えるか思い知ったんだ。確りとした監査システムを作り上げねば、他人のせいで自分が死んでしまう。結局、自己防衛の延長でしかないがな」

「戦争に対する無理解が減ったのも、それのおかげかな?」

「まぁ、それもあるだろうけど」

 素雪はそこまで言うと、立ち止まった。隣のフロア、時計がおいてあるフロアだ。

「一番の原因は、現実を身をもって体験したおかげだろうな。東京や大阪に住んでいる者なら、目の前で死んでいく友人親族を見ただろうし、日本海側の山奥なら、問答無用で自分たちを鏖にせんと進撃してくる敵兵を目撃しただろう」

「無防備都市の莫迦さ加減とかな」

 哲也が言ったのは、関西地方にあるとある都市の話だった。敵軍が海を渡って攻め寄せた時、政府はその地方に退避命令を出した。しかしその都市は、それを拒否したのだ。それだけでなく、自衛隊の展開も許可しなかった。無防備都市を宣言する。それが理由だった。

 結果は……考えなくても解るだろうが、燦々たるものだった。鏖にされたのだ。都市に住んでいたもの全員が、だ。愚かとしか言い様が無かった。たとえば戦争の相手がアメリカであったならば、まぁ、ほんの少しは(本当にほんの少しだが)結果が違っていたかもしれない。だが、敵は帝政時代から乱暴兇暴で通してきた国である。軍事力を伴わぬ中立など、全く意味を成さない。

 しかしながら、哲也と素雪が話しているように、それが全て日本人に悪く作用したわけではない。むしろ、現実に目を向けさせたと言う意味では、利点の方が多かったとすら取れる。

 これらのことがあったからこそ、日本は戦争開始からたった三ヶ月で憲法を改正し、ソ連、中共と連戦を戦い抜けたのだ。自衛隊の志願者が異常に跳ね上がったのも、このおかげだった。日本人は確かに腑抜けていたが、同族が殺されて何も感じないほど、ナショナリズムを持たないわけでもなかった。

 ちなみに、当然のことだが、自衛隊の人数が一〇〇万人を超えたのは、創立以来初めてのことだった(もっともその大部分が四十前後の兵士としてはあまり役に立たない年齢だったのだが)。

「住民が哀れだったな。まぁ、自らの意思で逃げ出した者も何人かいたようだが」

「一番迷惑を被ったのは自衛隊さ。あそこに展開できなかったせいで、敵に十キロ近く進撃された。まぁ、山中で足止めできたから良かったんだが」

 素雪は哲也の言葉に首肯しつつ、近くにあった置時計を取った。原産国を見る。東欧の国だった。東欧の国の全てが、再び赤く染め上げられたわけではない。資本主義の甘い果実を見てしまったものは、再びそれから手の届かぬ場所へ行くことは出来ない。資本主義には当然貧困層が付き物だが、国民全てが貧困するより数千倍ましだった。少なくとも努力次第で、貧困層にならぬことは可能なのだ。

「自衛隊はあれのおかげで血を見て、実戦を経験出来たんだ。まぁ、いずれはしなければならない、通過儀礼のようなものだったんだろうな」

「自衛隊だけじゃないさ。そこそこ外務省がまともに機能するようになったことが一番の収穫じゃないのか」

「ああ、そうかもしれない」

 素雪は同意した。本気でそう思った。

 日本の、伝統的に無能な外務省が唯一無二(と、言いたくなるような)成功を成し遂げたのが、第三次世界大戦の休戦条約だった。それは日米中戦争が終結した年の終わりに開催された。西暦で言うなら、二〇一〇年だった。

 内容は、過去世界が二回経験した類の休戦条約ではなかった。決定的な勝利が存在しなかったからだ。戦勝国、戦敗国が存在しない休戦条約の制定は困難を極めた。日本の札幌で行われたそれは、踊れど会議は進まず、まさにその言葉どおりのものだった。

 だが日本の外務省は、その場において、堂々と賠償金を請求したのだ。しかも請求先は、中共・ソ連は元より、アメリカ、中国そして韓国にまで請求したのだ。

 当然反発があった。しかし、日本は巧みに交渉を行った。これらの国は、EU諸国にも賠償する責任があるとしたのだ。そして、冷戦下の米ソ対立、中国・中共の対立、朝鮮半島紛争などの話を次々に挙げ連ね、これらのヤクザレベルの抗争が今回の戦争を招いたと言い切ったのだ。

 EU諸国は当然これに賛同した。自分たちにも賠償金の権利がある。それが理由だった。ソ連と対立していたのは彼らも同じなのだが、彼らは全ての責任をアメリカに押し付けた(もちろん日本は、日本には軍隊は無く、冷戦中も武力とは全く無関係だったと言う、いつもながらの詭弁で誤魔化した)。あなたの国が第二次世界大戦後に確りと戦後処理を行わなかったから。ドイツと日本など、過去の話を蒸し返す際、何気にかつての戦争犯罪人の名誉回復まで公言して見せた。そしてそれは、あっさりと受け入れられた。疲弊したソ連、アメリカ、中共は、圧倒的な経済力を持ちつつある日本、EU諸国、そして東南アジアとインドに対抗することが出来なかった(これらの国々はいずれも、日独に対して好意的な見解を示した。驚くべきことに、フランスとイギリスさえ、である)。

 結果的にアメリカ、ソ連そして中共は、日欧に対して多額の賠償金を払わされたのである(中国は日本の口添えにより免除された。もちろん、後の関係を睨んでのことだった)。軍費の乱用で国庫が疲弊していたこれらの国は、資金以外のもの、例えば兵器設計図や資源や土地を差し出すことにより、賠償金を一部免除してもらった。日本の軍事技術が異常に発達しているのもここに原因がある。アメリカから分捕った技術は、思いのほか役に立っていた。

 これらの日本の利益は、重ね重ね言うが、外務省の手柄であると言える。俄かに信じがたい話ではあった。なにせ、あの日本の外務省が、である。しかし、よくよく記録を見てみると、外務省の行った事柄、役員の発言、要求などは、そこまで突拍子も無いことではなく、むしろ、常識(良識ではない)ある国家の外務部署が行う当然の行為とも言えた。

 つまり、日本の外務省の質が突然上がったわけではなく、日本国民全てが戦争によって変化を起こした中、外務省に勤める者もその例外で無かっただけである。

 こうして考えると、今までの日本の外務省が如何に常識から外れていたかが理解できる。

「昔の外務省はひどかったからなぁ」

「そうなのか? あまり知らないんだ」

「ああ、お前日本生まれじゃ無いしな。いや、俺もよくは知らない」

 哲也は頭を掻きながら言った。素雪は、まぁそうだろうねと頷きつつ、手に持った時計を置き、次のフロアに行こうか、それとも今のフロアでもう少し商品を見ようか迷う素振りを見せた。

 だが、哲也は素雪にかまわず次のフロアに向かって歩き出した。素雪は一瞬躊躇した後、大人しく哲也に従って歩き出した。こいつの勝手には慣れてる。そう思っていたし、実際そのとおりだった。

 哲也は隣のフロアで立ち止まる。書籍を売っている店、つまり本屋だった。本はベトナム語で書かれているものばかりだ。漢字はで書かれた物は無いわけではないが、あまり見えない。

 素雪は何気なく、店の入り口に平済みにされている本を一冊取った。日本のライトのベルの翻訳版だった。日本では六ヶ月ほど前に発売された物だった。素雪も持っていた。

「こういうのも、日本との繋がりなんだろうか?」

 哲也が訊いた。手には、素雪の持っているものとは違う本が握られている。ハードカバーの、英国作家の本だ。十年以上前に日本で大ヒットした作品と同じ作者だった。内容も似たような魔法使いものらしい。

「さぁ」素雪は答えた。

「最近海賊版が少ないからな」

「まぁ、需要はあるだろうな。こんな日本的な精神で書かれた本が売れるのかは知らんが」

「売れるから売ってるんだろ」

 素雪が当然という風に言う。まぁ、そりゃそうだわな。哲也は頷きつつ同意した。

「で、どうなのよ、これ」

「まぁまぁだな」

 哲也は当たり障りの無い言葉に微妙な表情を浮かべる。

「ベトナム人から見たらどうなんだろな?」

「今は中華民国人だけど、まぁ、日本人が面白けりゃ面白いんじゃないの」

「どうかな?」

 哲也は納得しかねる表情を作る。日本人の精神というのは昔から独特だと言われているからだ。

 しかし素雪は、

「いや、日本独自の精神だと言われてる物も、結構海外で受けてるぞ」

 と言った。哲也は興味深げな表情をする。

「例えば?」

「俺がドイツにいた時なんだが――」

 素雪は手に持った本を置いた。

「日本の漫画やアニメの文化を広めるイベントが行われてたぞ。なんか、その漫画とかアニメの中に出てくる恰好した人とかもいっぱいいて……」

「コミケかよ」

 哲也が呆れた調子で言った。

「日本にも似たようなのがあったな。確か有明で――」

「ああ、ビッグサイトだな。ドイツにもあったのか……」

 哲也はしみじみとそういった後、ふと、とあることに気が付いた。

「てか、何でお前そんなこと知ってんの?」

「え? ああ」

 素雪は何と言うかな、という表情をした。

「戦友にそういうのが好きなのがいてさぁ」

「つれてかれたのか?」

「いや、本当はとある要人の尾行だったんだが……いや、尾行って言っても、後をつけて誰かと会うのを観察するとかいうやつじゃないぞ。護衛みたいなもんだ。それで、あそこに入られた途端見失ってさ……」

 哲也は先とは質の違う、呆れ顔をした。

「それで、見失ったら仕様がないから少し遊んでこうかと……」

「おい! いいのか!?」

 哲也は驚きを驚愕に変えた。こいつが任務失敗したから遊んできた? 信じられん。

 しかし次の言葉は、さらに驚くべきだった。

「いや、その戦友が言うには、相手の趣味さえ知ってれば問題ないって」

「はぁ?」

 哲也は意味がわからないという表情を作る。素雪は、気持ちはわかるよという表情を作って(もっとも素雪だから、ほとんど無表情だが)言葉を続けた。

「いや、だからさ。その後イベントが終わるまで遊んでたんだよ」

「それで、尾行はどうしたんだ?」

「ああ、うん。それなんだが……」

 素雪が言うには、イベントが終わったあと出口で見張ってたら見つかったらしい。哲也はその答えに、ますます困惑の表情を強くした。

「そんなんでいいのか? そんなごちゃごちゃの中だったら、その要人が何をしてたか……」

「いや、戦友が言うには問題ないらしい」

「何でだよ」

 哲也はいい加減呆れた調子で訊いた。素雪は渋い顔で答えた。

「何というか、あの場所では絶対に中で事を起こさない、とか言って……」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫だった」

 素雪は言った。

「まぁ確かに、あんなところで人を暗殺できるとは思えんが……」

「でも、コスプレしたやつとかいっぱいいたんだろ?」

「コスプレ……って、ああ。うん、そうだよ」

 素雪は僅かに逡巡した後にそう言った。

「じゃあ、武器とか簡単に持ち込めるじゃないか」

「いや、長物禁止になったから大丈夫なそうだ」

 素雪の言葉に、哲也は不思議な顔をして、

「長物……?」

 と呟いた後、ああ、と納得した声を出した。

「なるなる。でも、拳銃とかなら大丈夫なんじゃないか? あと、ナイフとか」

「行ったこと無い奴にはわからんかも知れんがな、あんな場所で戦おうなんてかなりの愚か者が考えることだぞ」

 素雪は厭そうな顔をしながらそういった。哲也は、素雪が人ごみが嫌いなことを思い出した。

「テロには絶好のポイントだろうが、少なくとも暗殺には向かない」

「そうか……」

 哲也は納得しかねる表情で頷いた。

「いや、相手がプロなら俺たちも本気出したんだが、何せ相手が新興のテログループだったからなぁ」

「一対どんな依頼受けたんだ?」

 企業秘密。素雪はそれだけ答えると、まぁ、と呟いた。

「そんな、いかにも日本的な文化のイベントも海外にあるわけだよ。日本人の感覚は日本人にしかわからないって言うのは、日本人にはワインの味が理解できないって言うのと同義だと思うぞ」

「そうかなぁ?」

 哲也の不思議そうな呟きに、そうだよ、と念を押す。

「つまり、何だ」

 今まで考えていたことを振り払うように、哲也は言った。

「日本が大きく変わって、その影響で、日本文化が世界に広まってるってことでファイナルアンサー?」

「それの許可を俺が出すと、俺たちはたった一行にすぎないことにこんな時間をかけて話し合っていたことになるのだが?」

 哲也は、もうどうでもいいよと呟いた。素雪は溜め息を吐く。

「行こうか」

「そうだな。とにかく、海外に広がった日本文化は堪能した」

「それによって」

 素雪は言った。

「日本の変化も肌で感じたわけだ」

 哲也はニヤリとした。

「全くだな」

「所詮」

 素雪は歩き出した。向かう先はエレベーター。ビルから出るつもりらしい。当然哲也もついてきた。

「己というのは他を通してからしか見えないものなんだ」

「真理だね」

 素雪の哲学的ともいえないことも無い言葉に、哲也は同意した。

 二人はエレベーター乗り場に着いた。マーフィーの法則に従ってか、全てのエレベーターが二人のいるフロアとは別の方向に動いていた。

「シャイセ」

 素雪は呟いた。哲也が苦笑する。

 哲也は三基あるエレベーターのどれが一番速く着くか考えていたが、やがて飽きて、周囲を見渡した。右から左へ、順に眺めていく。人々はだいたい東南アジア系で統一されていた。民族的衣装を着ている人もいれば、現代的な服を着ているものもいる。日本に置き換えたならば、洋服と和服を着ているものが雑多としているようなものか。哲也はそんな様子を想像してみた。あながち、変な風景でもないかな、と思った。

 そうしているうちに、背後で鐘の音が鳴る。エレベーターが着いたのだ。

「哲也」

 素雪が呼びかけてきた。わかってるよ。哲也は答えた。二人はエレベーターに乗った。素雪が一階のボタンを押す。

 哲也が知った顔を見たのは、最後の名残とエレベーターからフロアを見回した時だった。彼のよく知る……そう、本当によく知る人物が目に映った。哲也は目を見開いた。何で彼女が……。

「シュレン……」

「え……?」

 哲也が何事か呟いた。素雪がその言葉に反応した時、哲也は既に駆け出していた。閉まりかけるエレベーターのドアを潜り抜け、先ほどまでいたフロアに走っていく。

「お、おい……!」

 素雪は哲也を呼び止める。しかし、哲也の耳には届いていなかった。哲也は後ろを振り向くことなく、一直線に駆け出した。その直後、エレベーターの扉は閉まり、素雪を軽い重力の変化が襲った。降下している。

「なんなんだよ……」

 一人残されたエレベーターの中、素雪は独りごちた。

 

 そんな理由で素雪は、ハノイの町を独りで歩いていた。全ては哲也のせいだった。

「まぁ、いいけどな」

 素雪は呟く。哲也がいなくなったおかげで、彼は、心置きなく伝統的な店の立ち並ぶ町へ行くことが出来た。

 周囲の露天など見ながら、素雪は歩いた。暇だとは思わなかった。彼は骨董品収拾のような趣味は無いが、そういうものを見るのは嫌いでは無い。

 狭くてごちゃごちゃした、舗装のされていない町並み。素雪は曲がり角を曲がった。そこで、人とぶつかる。

「あ、すいません」

 素雪は英語でそう言った。ベトナム語の出来ない彼にとって、最も通じるであろう英語で謝ることは当然の行動だった。しかし謝りつつ、財布を確かめることは忘れない。当然だが、彼は全ての人間を無条件で信じられる人間ではなかった。

「いえいえ、こちらこそ」

 ぶつかった相手は英語で返してきた。同時に、自分の懐に手を突っ込み、何事か探っている。おそらく、素雪と同じ考えなのだろう。なるほど、なかなかの人間じゃないか。素雪は思った。スリだと疑われたことに対する怒りは湧かなかった。お互い様だし、こういう町では当然の行為だ。

 加点主義者である素雪はぶつかった男に対する評価をかなり高めた後、相手の顔を見た。一応顔ぐらい確認しておこうと言う思いだった。男の顔が視界に入った時、素雪は珍しく驚きという表情をして見せた。そしてそれは、相手の男も同じだった。

「あ……ライン……」

 素雪はドイツ語でそう言った。

「お前……素雪か……」

 男もドイツ語でそう言った。

 二人はしばらくの間立ち尽くした。

 

 

 

 

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