2017年 920

 

 哲也がその女性に追いついたのは、エレベーターを飛び出し、五フロアほど進んだところだった。哲也は人を掻き分けるようにして進み、その女性の肩に手をかけた。女性はびくりとして振り返った。

「シュレン!」

 哲也は女性に言った。女性は一瞬キョトンとし、次に驚きの表情を浮かべた。

「うそ……テツヤ?」

「ああ……久しぶりだな」

 哲也は乱れた息を素早く整えると、そう言った。現代ヘブライ語だった。

 哲也がシュレンと呼んだ女性は、美しい白人の女性だった。流れるような金髪に、美しい、やはり金色の瞳を、神がデザインしたような、と表現したくなるほどのバランスで、完璧な形の顔に配置していた。

「あ……」

 哲也はそう言った後、言葉に詰った。何の話をするべきかわからなかった。そもそも、何故彼女を追いかけてしまったかすらわからなかった。何せ、俺と彼女は……。

「えーと……なんでこんなところに?」

 哲也はしばらく考えた後、そう訊いた。ありきたりな質問だった。しかし、そんな言葉しか思いつかなかった。

「え……あ、ええ。ちょっと仕事で」

 哲也の質問に、シュレンはそう答えた。

「あ、そうなんだ……」

 哲也はそう答えた。それ以外答えようがなかった。

「ええと……ああ、どんな仕事?」

「前と同じ仕事よ」

「え、じゃあ、記者続けてるんだ」

 シュレンは頷いた。へぇ、すごいねぇ。哲也は言った。本気でそう思っていた。

「そういうあなたは?」

 シュレンは訊いてきた。哲也はええと、と言いよどんでから、きっぱりと答えた。

「うん、商社に勤めてるんだ。今回はビジネスでね」

「商社? あなたが? すごいじゃない!」

「うん、まぁね」

 哲也は内心を全く表情に出すことなく言った。しかし、そこまで賞賛すべき行動でもない。何故なら第4小隊はここに来る前に、偽造された身分に成りすます訓練を行っていたからだ。

「お前だって、すごいじゃないか。海外まで来たんだから、夢、叶えたようなもんだろ」

「え……?」

 シュレンは哲也の言葉に不思議そうな顔をして、それから、やっと気付いたようにああと呟く。

「ええ。そうなるわね」

 シュレンは笑いながら言った。哲也もつられて笑った。

「偉いなぁ」

「そんなこと無いわよ」

 哲也の呟きを、シュレンは否定した。

「あなただって、偉いじゃない」

「え……?」

 哲也は笑い顔を潜めてシュレンを見つめた。彼女は言った。

「だって、あんな地獄の生活から、まともな日常に立ち戻ったんじゃない」

 何の疑いも露にせずそういうシュレンに、哲也は戸惑った。

「ああ……。そうだな……」

 何とかそれだけを口から出す。内心では、自責の念が渦巻いている。俺は彼女を騙しているわけだ。あの時みたいに。くそが。なんてヤツだ、俺。

「ねぇテツヤ、ホテル、何処?」

「え、ああ。東にあるハイノ・フォーカスホテルだよ」

 哲也はまたもよどみなく答えた。これも、事前に打ち合わせがしてあり、哲也の名前で部屋が登録されていた。有事の際は、実際に使用することも出来るようになっている。

「へぇ。ビジネスホテルではランクが上じゃない」

「まぁね。はは、俺の能力の証明さ」

 シュレンはふふふと笑った。そう、そのとおりだ。哲也は思った。俺がこんなところにいるのも、俺の能力の証明なんだ。嘘じゃない。嘘じゃないが……。

「そういう君は?」

 内心の葛藤を誤魔化す為、哲也はそう訊いた。心のどこかでもし何かあった場合に彼女の身柄を確保しないといけない、と考えていなかったとは言い切れなかったが。

「え……?ああ、ええ。私はここからだと南にあるホテルニューハイノよ」

「へぇ。高級ホテルに近いじゃないか。四十階建てのホテルで、屋上にプールがあったよな」

「そうなの。よく知ってるじゃない」

 シュレンは何気なくそういった。だが哲也は、内心で焦った。ハイノに来る前、この地の地形や町の様子を徹底的に教えられていた。市街戦が無いとは言い切れず、また起こった場合は、被害者を出来るだけ少なくする必要があるからだ。

 その知識が、ついポロリと出てしまった。

「あ、ああ。取引相手のホテルなんだよ」

「へぇ、そうなの」

 シュレンは疑った様子も無く言った。哲也は反省していた。くそ、何をやっているんだ、俺。素雪ほど滑らかに嘘を吐けとは言わないから、せめて疑われないくらいには嘘を吐かないと。

 哲也は先まで一緒にい友人が他人を騙す術にかけては一級だと言うことを思い出しながらそう考えた。

「どんな取引なの? あ、企業秘密とかだったら言わなくても結構よ」

「いや、たいしたことじゃないさ。パソコン販売の契約だよ。現地――つまりここだが――の企業とね」

 これもまた、事前に決められていた。架空の卸売企業とその電話番号が用意され、電話の向うには、架空の企業を演出する者が待機している。ちなみにこの立場は、日本にいる時も使用される。

「すごいわね。努力してるのね」

「ああ。大変だったよ。一からここまで昇るのは」

 ああ、本当に大変だったんだぜ。入隊テストなんて死ぬかと思ったよ。哲也は心の中で付け加えた。

「そうよね。ビジネス経験なんて……いえ、そういえば、特殊部隊では話術とかは習わなかったの?」

「いや。あれは実戦だけの部隊だからね。諜報は別の組織がやってたよ」

 そうだったの。シュレンは納得した。それから、少し悲しそうな顔をして遠くを見て、言う。

「あれからもう一年ね……」

「………」

 哲也は何も言えなかった。ただ、自分が一方的に別れを告げた過去の女性を見つめていた。

「ねぇ、テツヤ」

「シュレン……?」

「私の部屋に来ない? ゆっくり話しましょう」

 

「まったく、お前もすげぇよなぁ」

 ライン――ラインハルト・シュルツは素雪に向かってそう言った。お世辞ではなく、本意だった。

「別に。たいしたことじゃないさ」

 素雪は素っ気無く返す。ラインは顔に笑みを浮かべ、変わらないなぁ、お前も、と楽しそうに言った。

 ラインルト・シュルツ。外見は四十がらみの屈強な男。身長は一八〇を超えるほどだが、肉体は年齢を感じさせないほど引き締まっている。金髪碧眼で、ドイツ人。頬に大きな傷があり、よく見ると耳も欠けている。しかし元々ハンサムな顔の彼にとって、それは凄みを増すアイテムのようだった。

 彼は、素雪の傭兵時代の友人だった。いや、戦友といったほうがいいかもしれない。

 二人は市内にある居酒屋兼軽食堂のような場所に来ていた。店内は騒がしいが、不快なそれではない。高級レストランのように美しいわけではないが、清潔さは保っていた。二人はカウンターではなくテーブル席に座り、テーブルの上にはちょっとした料理が乗っていた。

「特殊部隊? それも日本の? これを凄いと言わずして何と言えというんだ」

 ラインはドイツ人らしからぬ大振りな動作で言った。お前は自分を低く見すぎなんだよ。謙遜するな。そう続ける。

「謙遜なんかじゃないさ。ちゃんとした行動は、まだ一回しかしていないんだ」

 でも、ちゃんとしてない行動なら、何回かやったんだがね。心の中でそう付け加える。

「へぇ」

「意外か?」

 ラインの言葉に素雪が言うと、ラインは頷いた。

「ああ、意外だね」ラインは言った。

「日本って言うと、もっと武力行使必要のややこしい事態に陥りまくってんのかと思ったんだが」

「失礼だなぁ」

 素雪は古い仲間だけに見せる気軽な態度(無論素雪のそれなので、普通の人には普通の態度としか見えない)でそう言った。

「何でそう思うわけさ?」

「いや、だってなぁ。前に日本が、演習中に標的艦と間違えて朝鮮のボートを撃沈したことがあったじゃないか。ああいう時って、やっぱり交渉とかの為に朝鮮に潜入して、破壊工作とかやるんじゃないのか?」

「待て。朝鮮といっても北の一部分だけだし、ボートじゃなくてあの国では立派な主力艦だ」

 ラインの言葉を素雪が訂正する。

「ああ、そうか。朝鮮はポーランドみたいに二つに分かれてるんだったな。しかし、主力艦? 標的艦と間違えられるような艦がか?」

「ああ、そうだ」

 素雪は渋い顔で頷いた。

「ただあの時は……ああ、何と言うか。微妙に違うと思うんだ」

「どういうことだ?」

 ラインは続けて訊く。

「確かに彼の国の主力艦はボロボロなんだ。標的艦に間違えるぐらい。むかし自衛隊は旧ソ連の湾岸警備隊艦艇をぶっ飛ばした事もあったんだが、それよりももっと酷い艦なんだ」

「酷い国だなぁ。よくそんなので国防を成り立たせてるよ。ああ、もちろん日本じゃなくて北の方だぞ」

「まぁな」

 素雪は同意した。心の中で言う。まぁ、後ろにソ連と中国がいなければ、既にありえない国だがな。

「だが、まさか日本の自衛隊が標的艦と多国籍艦を間違えると思うか? まぁ、排他的経済水域ぎりぎりだったんだぞ。しかし、自衛隊は過去の経験からそういうのに慣れてる」

「え……じゃあ、まさか」

 ラインが驚いたような面白そうな顔をする。素雪は頷いた。

「いや、あくまで予想だ。だが、事件後政府が彼の国の抗議に対して、そんな廃刊寸前の艦を我が国の水域境界付近を航行しているのが悪い。むしろ、その艦の廃棄を手伝ってやったんだからこっちが金を貰いたいくらいだ、って挑発してたから、まず間違いないと思う」

「おいおい……」

「海自の命令書でも調べれば判ると思うが、自衛隊のコンピュータのロックは固いから、忍び込むのは難しいだろうな。いや、無論ね。俺はそんな面倒くさいことしないがね」

 ラインは何とも形容しがたい表情をして見せた。かつての日本を知っている彼としては、その変化に呆れるべきか、それとも驚くべきか迷っていた。

「だが、あの事件も事なきを得たぞ。事件後直ぐに海自が洋上侵攻妨害訓練と称して日本海に大量の駆逐艦を浮かべたからな。加えて、空港には倍の数のパイロットを待機させ、陸自のミサイル部隊のがんばってたよ。警察も対テロ体制を厳重に布いたし、韓国との交通も封鎖した」

 素雪は言いながら、そういえば韓国はあのせいでやっと復旧しかけていた国内産業がすごい被害を受けたそうだな、と思い出した。

「……。日本ってのは、いつからそんな威嚇的な国になったんだ?」

「戦争からに決まってるじゃないか」

 素雪はなんでもないように答えた。

「あの戦争のおかげで、我が国の国防体制がまともになったんだから」

「ああ、そうだったな」

 ラインは何を今更な質問をしたんだろうという気持ちになった。まさに今更な質問だった。あの戦争が日本に、いや、世界に及ぼした影響の大きさは、計り知れない。自分だって、その被害者と言うべきじゃないか。いや、職業的には僥倖とも言えるがね。

「しかし、活躍した一回でも、ちゃんと任務は成功させたんだろ?」

「ああ、当然だろ」

「やっぱりたいしたものじゃないか」

 そうかなぁ。素雪はいぶかしむように言う。おいおい、お前のことだろう。ラインは笑いながら言った。

「しかし、正規軍の特殊部隊とはなぁ。出世したもんだな」

「軍じゃない、って言うのはまぁいい。正規軍の特殊部隊と入っても、訓練自体は傭兵時代の戦闘の方が苦しかったぞ」

「そうか? しかし、傭兵と正規とじゃあ違うところも多いだろう」

 素雪はまぁな、と曖昧な肯定をした。

「例えば自衛隊(ゼルプスト・フェアタイディグング・アルメー)だと、どんな銃を使ってるんだ? まさかAK47(カラシニコフ)じゃないだろう。タイプ15か?」

「タイプ15は輸出専用だから、自衛隊は使ってないよ。陸自――あー陸軍はタイプ14、海軍と空軍はそのカービンタイプ。俺たちはタイプ89のカービンを使ってたんだが、最近はタイプ14カービンに変えた」

 素雪は言った後、自分の言葉をもう一度反芻してみた。この情報は言ってもいいよな? かまわないはずだ。ネットどころか書籍でさえ公開されてる。

「そうなのか? タイプ15はいい銃だから、てっきり日本でも使ってるのかと思ったよ」

「あれはタイプ14の廉価版なんだよ」

 タイプ14――つまりJMI開発の14式小銃は、現在日本の自衛隊が正式採用している小銃だ。豊和の89式小銃の後継として採用された。

 日本()軍事()工業()社――つまりスサノオ・インダストリーは、戦中に創立した新会社だ。その後未だに世界中で続く戦争地域に消火器を中心とした武器を売りまくって、現在の大きさまで成長した。ちなみにスサノオ・インダストリーとは、JMIの渾名だ。大日本技研を「ポセイドン・インダストリー」と呼ぶのと同じようなものだった。

 そのスサノオが2014年開発したのが14式小銃だった。ちなみにこれは、スサノオの開発した初の完全オリジナル小銃だった(それまでは、カラシニコフやM16、ガリルなんかを元に開発した9式小銃を中心に売っていた)。日本製らしく高精度、軽量、小型の小銃ながら威力充分という、戦争以来装備について随分口うるさくなった自衛隊でも満足できるものだった。もちろん日本製特有の単価が高いという性質も備えていたが、一挺三十万円の89式に比べ、十万円は充分に安価だった。

 実戦配備後の評判も上々だった。最初から付いているスコープは言われていたほど壊れやすくは無かったし、セレクターは左右どちらでも取り替えられるように、コッキングハンドルは(今までの日本製のライフルと同じように)銃の上部に付けられ、やはり左右どちらでも扱えるようになっていた。キャリングハンドルも実際使ってみれば無駄な装備ではなかったし、二脚(バイポッド)銃剣(バヨネット)も未だ時代遅れの装備ではなかった。

 スサノオは自衛隊での評判の良かったこの小銃を輸出しようとした。しかし、資金が壁となってそれは出来なかった。一挺十万円――一〇〇〇ドルもする小銃は、いくら性能が高くとも、好んで採用したい小銃ではなかった。

 そこで、スサノオは廉価版を開発することにした。完成したのは翌年。異常に早い速度だが、元々簡易ヴァージョンは14式小銃開発当時に案が出ており、廉価版はそれを改良しただけだった。

 その廉価版が、15式小銃だった。14式との外見の違いは、ストックが折りたたみ式のスケルトンから固定式に変わっているほか(これはオプションで変更可能)、照準機が光学式から固定式になり、バイポッドが外され、キャリングハンドルも外されている。内部機構の違いとしては、三点バーストが廃止されている。だがそれ以外は、(製作精度を除いて)14式小銃と変化が無い。それでも(他の安価な武器に比べて)高い精度と丈夫さを誇った。値段は五万円。やっぱり高いが、14式と比べて半額なのは魅力的だった。

 これも、戦地からの評価は上々だった。砂漠やジャングルなど、場所を問わずちゃんと動いて見せた。カラシニコフシリーズを作っていた経験が、どうすればどんな場所でも動く銃を作れるかをスサノオに教えたとも言われているが、真偽は不明。売却先としては、イスラエル、中華民国、カナダ、オーストラリアなどに売られている。アフリカ諸国や一部の東欧諸国にすら売られているのだから驚きだった(ラインの言葉を聞く限りでは、一部の裕福な資金源(パトロン)を持つ傭兵の間でも人気のようだ)。

 ちなみに、正式採用銃がスサノオ製のものになったからといって、豊和が兵器生産を止めてしまったわけではない。海外輸出用の武器を生産しているし、噂では、JMIと共同で次期自衛隊正式採用小銃を開発しているとの噂もある。それと関連するかどうかは知らないが、ブルパップタイプの小銃を幾つも開発しては実験的に売ったり配ったりし、ブルパップの生産開発経験を積んでいる。FN社からP90やFNF2000のライセンスを取り、空自や海自、陸自の機甲科や特科用に生産しているのも関係があると言われる。

 これは、日本全体に見られる傾向だった。元々自衛隊用に兵器を作っていた会社の多くが、既存兵器を改良したり、新兵器を開発したりしている。例えばミネベアはドイツのSIGザウエル社からP226やP230、P239などのライセンスを取ると量産していたし、評判が最悪に悪かった9ミリ機関拳銃も改良していた(ストックを付け、安定性を向上させた。元々クレームが付いていたIMIからはさらに盗作だと非難されたが、ストックの形がウージーとは違うとしてのらりくらりと訴訟を回避していた)。噂では、独自の拳銃も開発中といわれている。

 

「タイプ14か」

 ラインは言ってみた。

「見たことは無いが、日本製なんだ。いい銃なんだろうな」

 素雪はニヤリとした。もっとも、見る人が見なければ口の端を僅かに歪ませただけだった。

「どうであるにしろ、AK74なんかよりはずっといい銃なんだろ」

「精度に限って言えばね」

「まぁ、ソ連軍相手に精度が高くても意味無い、か? 確かに俺たちにとっては、いくらでも手に入るから撃っては捨てられたカラシニコフの方が役に立ってたかもな」

 素雪はそうだな、と相槌を打った。そして言葉を続ける。

「役立っていた、か。確かにな。小銃は最高の武器だと思うよ」

「何でそう思うんだ」

 ラインが訊くと、素雪は何かを思い出すように上を向き、答えた。

「どんな時でも使える。何にでも使える。いや、それ以上に。戦車や重兵器を失えば、最後に残るのはあれだ。銃剣をつけて槍にして、最後まで諦め悪く戦うんだ」

 その言葉に、ラインはニヤリとした。

「確かにな。俺たちにとっては小銃は最高の武器だったぜ。何せ、指揮官が良かったからな」

 素雪は苦笑した。

「誰のことだ?」

「お前以外にいるか」

 ラインはさらりと言った。

「ほら、覚えてるか? アフガンでソ連軍を迎え撃ったこと」

「結構あったな。そういうことは」

 素雪に言われ、ラインは言葉に詰る。

「う……。ほら、あの時だ。後ろに何とかって村があって、荒野に塹壕掘ったやつ」

「……ああ。あの、カブルだかカベルだか言う村の前に展開したヤツか」

「そうそう。それ」

「あれは酷かったからな……」

 それは素雪がまだ傭兵をやっていた時代、ラインと共にアフガンの抗ソ戦に参加した時の話だった。

 

 荒野は、砂漠とはまた違う。土が固いのだ。

 ところどころに顔を覗かせる岩は、上に伏せただけで凶器たりうる。枯れて乾燥しきった植物の成れの果ては、かつてこの地にも多少なりとも草木の気配があった時の思い出だった。いや、かつてとは言ってもそんなに昔の話ではない。こういう荒野には雨季というものが存在する。

 だが今その荒野には、無数の穴が穿たれていた。大きさはまちまちだ。指ほどのものもあれば、小さなクレーター状のものもあった。規則的な方向に掘られた、溝のようなものもある。

 それらは皆、人間の作った穴だった。指のような穴は銃弾があけた穴、クレーターは榴弾があけた穴、そして規則的な方向に掘られた溝のような穴は人間の掘った塹壕だった。

 つまり、そこは戦場だった。その証拠に、今でも荒野の上を銃弾が飛び交い、怒号と悲鳴が響き、爆発音がしている。あちらこちらに死体が転がり、荒野は地と硝煙の香りで満たされていた。

 アフガンの暫定政権に雇われ、部隊として編成されなおしたウェルグラム社の傭兵も、その場に展開していた。

 ウェルグラム社はアメリカに本社を持つ軍事人材派遣会社――つまり傭兵会社だった。戦争が勃発して、加えて合衆国の戦争が終わってからは、さらにその仕事の手を伸ばしていた。人材の登用も増え、社員の数も戦前の二倍程度に増えていた。あちらこちらで起こる共産国と自由主義国の戦争が、彼らを必要としていた。

 ウェルグラム社は、傭兵会社にしては信用度が高かった。普通、傭兵は信用出来ない。主義や主張があるわけでもなく、護る国に愛すべき家族や友人たちがいるわけでもない。ただ金の為に戦っている。そして金とは、命があってこそその価値を発揮するものだ。つまり、傭兵は命が危なくなれば、例えば負戦だと判れば、直ぐに逃げてしまうのだ。

 これには前例がある。例えば湾岸戦争の際、クウェートを防衛していたのはほとんどが傭兵だった。しかし彼らは、イラク軍が攻めてきた時、直ぐに逃げ出してしまったのだ。結果、クウェートは占領されてしまった。

 しかしこの行動は、理解できるものだ。傭兵というのは、先触れたが、兵士となって金を稼ぐ。つまり、兵士になれなければ金が手に入らないのだ。しかも、正規兵とは違って退役後の年金や戦傷手当てなどは一切出ない。つまり、戦争が出来ないほど大怪我をしてしまったり、ましてや死んだりなんてしてしまってはいけないのだ。ならば、無理してまで戦おうとは思うはずもない。

 故に、傭兵が戦争のプロだというのは、ある一点において非常に正しい。彼らは誰よりも、引き際を見極めることを得意とするのだ。

 だが、ウェルグラム社は社員たちに“逃げるな”という教育を施した。もちろんこれは、撤退をするなという意味ではない。雇い主を裏切る事なかれという意味だ(もちろん完全にではなく、最終的な意味において、だ)。

 要するにウェルグラム社は、信用度を上げたかったのだ。逃げやすい傭兵が逃げなければ、それだけで信用される。そして傭兵を雇う場合、信用度の高い者を雇うことは言うまでも無い。

 ウェルグラム社はそういう会社だった。社長のパルート・ウェルグラムの性格が原因かどうかはわからない。しかし、その方針は間違いなくウェルグラム社を人気にした。そして不思議なことに、社員(つまり実際に戦う人たち)の被害も、そう大きい物ではなかった。

 しかしこれは、偶然ではなかった。これもまたウェルグラム社の経営方針に影響していた。ウェルグラム社は、どうやっても勝てないような戦いに社員を派兵しなかったのだ。

 つまり、ウェルグラム社の傭兵たちは勝ち戦、もしくはドローの戦争にしか送られることがなかったのだ。どんなに苦戦はしても、上手く戦えば負けることはないような戦場。ウェルグラム社はそんな場所を見極め、契約を結んでいったのだ。

 つまり、ウェルグラム社の成功は、兵士と銃後、両方の協力によって成り立っていたのだ。

 

 今この荒野にいるウェルグラム社の社員たちも、その例に漏れなかった。よっぽど下手な戦いをしなければ負けないような戦場だった。ただ、一つ誤算があったとすれば、その場のアフガン軍指揮官がよっぽどの無能だった部分だろうか。

 

「ちくしょうめ……!」

 ラインはぼやいた。周囲には次々と榴弾が弾着している。砲弾の破裂音と火薬の臭い、そして破片があちらこちらに飛び散る金属音場を支配する。塹壕に伏せていれば滅多なことでは破片で死ぬことはないと解っていても、股間が縮み上がるような恐怖であった。

 ラインはその屈強な躰を塹壕の奥に潜ませ、顔には恐怖の色を浮かべていた。怯懦と呼ぶべき態度ではない。戦場で真に勇敢なる者は、恐怖を友人にする者だ。恐怖を無視するものは、何の疑いも無く死に突き進む者と同義だ。人はそれを愚か者と呼ぶ。

 ラインは隣を見た。肩に曹長の階級章を付けた少年が、同じように伏せていた。髪の色もラインと同じだった。しかし、年齢はラインより大分若い。若いと言うより、幼いと言ったイメージが強い。少年どころか子供ですらある。

 だが、これも珍しいことではなかった。戦争の勃発以来、世界中の少年兵――十八歳未満の兵士たちの数は、平和だった時代の十倍にまで増えている。その中で才能のある者は、実力主義の軍隊でのみ許される速度で昇進していく。十二歳の少尉(もちろん兵卒で、だ)がいたという話すらあった。

 彼は何か言っていた。恐怖で頭がおかしくなったわけではなさそうだった。ラインのほうに向けられた翠眼は、確りとした光を宿していた。

 少年は爆音で話が通じないと解ると、手話で、耳を貸せという仕草をする。肩に一等軍曹の階級章を付けたラインは自分より若い上官に従った。

「敵の攻撃が止んだら――」

 少年は手を筒の形にし、その片方をラインの耳に、もう片方を自分の耳につけて言った。

「撤退の準備をしておけ。地雷も用意」

 ラインはその言葉に眉をしかめた。今度は彼が少年と同じような恰好をして、少年に自分の言葉を伝えようとする。少年は黙って耳を傾けた。

「お言葉ですが、ヴァレンシュタイン曹長」

 少年――素雪ヴァレンシュタイン曹長は頷いた。続きを言え、の合図だ。

「小隊からの命令では、戦闘準備だけで撤退は――」

 そこまで言った時、直ぐ近くで榴弾が炸裂した。ラインと素雪は首を竦めた。人間として当然の反応だった。ラインの隣にいた、運の悪いことこの上ないアラブ系の二十代後半ほどの二等兵が、真上から落ちてきた榴弾の破片に腕を切り裂かれた。悲鳴を上げる。もちろん声は爆発音にかき消されて聞こえない。ラインと素雪は蒼ざめた。直ぐに衛生兵(メディック)が駆けつけてきて、二等兵の手当てをした。彼の怪我はそこまで大したこと無いらしく、衛生兵が簡単な手当てをすると、自分で歩いて後方へ引き下がった。ラインと素雪は軽い安堵を覚える。二等兵が助かったことと、もし自分が傷ついても、同じように助けてもらえると思えたからだ。

 ラインはほっと胸を撫で下ろしながら言葉を続けた。

「撤退は、命令にありませんが」

 ラインと素雪はポジションを交代する。

「それは解っている」

 素雪は大声で叫ぶように言った。また近くで榴弾が炸裂する。今度は被害者はいなかった。

「しかし、今この場での抗戦は無意味だ。師団長……か、誰か知らんが、それを解っていない」

「独断の撤退ですか」

「いや、そこまでは……いや、そうかもしれん」

 素雪は自身に対して首肯しながら言った。実際のところどうだろうと考えた。覚悟を固めた。部下を(十人程度だが)皆死なせるよりは、命令違反の汚名を着せられたほうがましだった。

 ポケットから鏡を取り出し、塹壕の端から僅かに外に出してみた。その間ラインは、周囲の兵士に指示を出していた。

 素雪は鏡を通して塹壕の外の様子を見る。見えたのは戦塵、火炎、そして降り注ぐ弾丸のみ。しかし、周囲の状況を掴むにはそれで充分でもあった。つまりは、めちゃくちゃに攻撃されているのだ。

 素雪は鏡を収めた。その後で、何で自分がそんなことをしたのかわからなくなった。全く意味の無い行動だったからだ。こんな状況で、何かが見えるはずも無い。

 ラインが素雪の肩を叩く。素雪は振り向き、ラインに耳を貸した。

「撤退の準備が完了しました」

 素雪はその言葉に周囲を見回した。素雪の分隊の兵士たちは皆、要らぬ荷物をバックパックに仕舞っていた。外に出しているのはライフル、スコップ、そして地雷のみ。

 素雪はその様子を満足そうに眺めると、

「ありがとう。地雷はいつでも仕掛けられるように」

 ラインにそう言った。ラインは頷き、その旨を兵士たちに伝える。兵士たちは信管を用意していた。

 そうするうちに、急激に砲撃が弱まった。二、三発連続した弾着音の後、砲撃が完全に止んだ。いよいよだな。素雪は言った。ええ、いよいよですね。ラインは相槌を打った。

「分隊長殿」

 壕に備え付けられた充分に冗長性を持たされた有線の通信機に付いていた通信兵が素雪に言った。分隊なので、無論、通信幕僚など存在せず、通信兵が直接通信内容を素雪に報告する。

「何だ」

 素雪は叫ぶように聞いた。爆音で耳が麻痺しているため、そうしないと聞こえない。耳の奥でキーンという音が響いていた。

「小隊より命令。直ちに防戦準備」

 既に防戦なんだがな。素雪は思ったが、口には出さない。部下たちを前線(フロントライン)症候群(シンドローム)にするわけにはいかない。

 素雪は周囲を見回す。先まで塹壕にへばりついていた兵士たちはライフルを確りと持ち、いつでも塹壕から顔を出せるようにしていた。バックパックは横に置いてある。

 塹壕側を見ると、先ほどの砲撃で動けぬほどの怪我を負った兵士たちを衛生兵が回収し、後方に運んでいる。衛生兵とは、その名前から受けるイメージとは裏腹に、屈強な兵士が多い。今のように怪我をした兵士を背負って運んだり、砲撃の恐怖や怪我の痛みで狂ったようになってしまった将兵を押さえつけて治療をしなければならないのだから当然だ。

 素雪は再び兵士たちに眼をやる。誰も彼もがそれなりの恐怖を抱いている。だが、もちろん当然の現象だ。そろそろ頃合いか。素雪はそう考え、命令を出した。

「全員、構えろ!」

 兵士たちは己が指揮官の言葉に立ち上がる。塹壕の淵から身を乗り出し、伏せ撃ちに近い恰好でライフルを構える。素雪やラインも例外ではない。機関銃や対戦車ロケットを構える者もいる。

 遠くに敵が見えた。裸眼では何も識別できない。

 素雪はポーチから私物であるカール・ツァイス製の双眼鏡を取り出した。対物レンズのキャップを取ると、接眼レンズを目に付け、敵部隊の方向を見る。ほとんど縦にしか動かす必要はなかった。敵は横一杯に広がって前進していた。

「これはこれは……」

 素雪は彼にしては珍しい、冗談めかした態度で感嘆の声を漏らす。

「全くですな」

 やはり私物であるアメリカ陸軍正式装備の双眼鏡を構えたラインは同意した。

 敵は圧倒的だった。数は一個連隊はあろうか。この場所には素雪の分隊の属する大隊しか展開していない。つまり、一個大隊に対して一個連隊。ただの連隊ではない。戦車と機械化歩兵(自動車化狙撃兵)が混雑しているから、連隊戦闘団だろう。

 アフガン軍が展開しているのは、カベルという村の北側だった。カベルは険しい岩山に挟まれた村だった。町自体は広いが、戦争の拡大に伴う過疎化によって人口はそう多くない。今はほぼ全ての住民が避難していた。岩山は本当に険しく、戦車どころか歩兵ですら通り抜けられるものではなかった。

 よってアフガン軍は、岩山と岩山の間の道を封鎖するように部隊を展開していた。塹壕を掘り、野戦築城をしていた。規模は一個師団。しかし、人数は八〇〇〇人しかいない。

 この師団は既にソ連陸軍の攻撃を三度ほど弾き返していたが、定員一杯の時でも一〇〇〇〇名ほどしかいなかったから、やはり師団という名称は見掛け倒しだった。正しくは旅団規模と言える。

 一方、そのアフガン軍一個師団に攻撃を仕掛けるソ連陸軍は二個師団規模だった。人数は、定員一杯なら四〇〇〇〇名のはずだが、軍隊において定員一杯など考えられない。事実、現在アフガン軍一個師団(旅団)に攻撃を仕掛けているソ連陸軍二個師団は定員の七十五パーセントほど、三〇〇〇〇名だった。しかしソ連らしく戦車だけは充実しており、一〇〇輌近くが確認されていた。

 

「何ということだろうな」

 素雪は進軍してくる重厚としか言い様の無い敵軍を見ながら言った。

「敵はあんなに強大なのに、俺たちはこんな時代遅れの戦法で戦っている」

 塹壕に籠もっていることを言っていた。塹壕は確かに歩兵の防御力を上げるが、かわりに機動力を低下させてしまう。その上指揮官に、ここに籠もっていればという根拠の無い安心感を与え、戦術を硬直化させることすらある。そして、今の時代戦争で最も重要なのは機動力だ。塹壕を掘ることは、精鋭を拘束してしまうことを意味する。全ての軍隊が精鋭化してきている今の時代、これは不利益と言うほかない。

「全くですな」

 ラインは同意した。

「我々の祖父や曽祖父は塹壕にこだわらない戦法を使ってイギリス人(トミィ)アメリカ人(ヤンキー)ロシア人(イワン)を翻弄して見せたのに、今度はそのロシア人に俺たちが翻弄されようとしている」

 そして、小さな声でジークハイルと言って見せた。素雪は口元を歪めた。微笑んだらしい。

「誰がこんな作戦を立てたんだか知らないがね」

 素雪は全ての愚か者は唾棄すべきなのだという口調で言った。

「こんな場所に塹壕を作って籠もっていても、敵の砲撃と航空攻撃で滅茶苦茶に叩かれた後、電撃戦で一点集中攻撃されたらあっという間に抜かれてしまうのに」

 

 最初に火を噴いたのは牽引式の火砲だった。少し後方に配備されたそれは、試射で弾着観測をしていた場所に敵が入った途端、猛烈な勢いで一五五ミリ砲を放った。欧州幾つかの国の共同開発だけあり、精度・威力とも上々だった。日本(ヤーパン)から購入した火砲だと聞いたから、それも影響を与えているのかもしれない。あの国は何故か長距離火砲にさえ異常なまでの高精度を求めるからな。おっと、そういえば俺の上官も半分は日本人だったな。ラインはそう思ってちらりと素雪を見た。彼の表情は相変わらず無表情だ。

 火力支援はそれだけでは無いらしい。新旧雑多なあらゆる火砲がかき集められ、火を噴いている。西側も東側も、最大口径は同じ二〇三ミリなのだな。ラインはそれを不思議に思った。

 弾着は次々に敵の集団の真ん中で起こった。敵陣の真っ只中上空で炸裂した榴弾は、その破片で周囲にいる敵兵を根こそぎ傷つける。直ぐに敵の連隊戦闘団は土煙に包まれて見えなくなった。

 いいぞぉ。ラインは砲撃部隊に賞賛を送った。あれだけ雑多な兵器を掻き集めた部隊だというのに、狙いは正確だ。

 と、同時に、砲兵の攻撃が大した効果を持っていないことも、当然理解していた。砲撃というのは見た目では凄まじい。立ち上る黒煙や炸裂する榴弾は、何者も吹き飛ばしてくれるバリアーのようにも思える。もちろん、そんなわけが無い。確かに正確な砲撃はなかなかの威力がある。しかし、それで致命的なダメージを与えられるわけではない。もちろん、敵の進撃を止めることなど出来はしない。戦車やそれなりの装甲を施された装甲車なら、直撃でもしない限り榴弾など意味は無い(榴弾とはその破片で生身の兵士を傷つける為にあるのだ)。躰を曝している歩兵にしたって、散開して接近されたら軽々しくダメージは与えられない。

 もちろん、敵の進撃速度を低下させる程度の効果は期待できる。自分たちに向かって砲弾が降り注いでいる中、敵に向かって迷わず進める兵士は少ない。たとえ怒鳴り散らす下士官や、命令を発する士官がいても、だ。

 だが、いつかは到達される。塹壕に突撃される。砲兵だけで敵の進撃は食い止められない。

 だからこそ、塹壕には無数の歩兵が配備されているのだ。

 ラインは巻き上がる煙に包まれながらも前進してくる敵を見ながら(いや、煙のせいで見えはしないが)、自分の手元を確認する。そこには確かに、ソ連製のアサルトライフルが存在した。弾倉にはきっちり二十八発の弾が詰っている。弾丸を一杯に詰めないのは、そうすると給弾不良を起こすといわれているからだ。実際起きるかどうかは知らなかったが。

「まだ撃つなよ!」

 ラインは自分の分隊の兵士たちに叫んだ。こういう管理は下士官の仕事だ。

 ラインの所属する分隊(分隊長は素雪)は、アフガン軍師団の第2独立大隊(諸兵科連合編制・ウェルグラム社社員で構成)第1小銃中隊第2小隊第3分隊になる。

 よって、兵士たちの主な装備は(名前のとおり)小銃だ。分隊は十人で構成し、その内八人が小銃を、一人がグレネードランチャー(小銃に装着するタイプなので、結局小銃を持つことになるが)を、一人が分隊支援火器(つまりは機関銃)を持っている。現在、分隊は八人に減少しており、グレネードランチャー手と斥候(ポイントマン)が後送されていた。しかし、斥候はこういう防戦の場合特別にすることは無く、グレネード手は他の隊員が代行しているので、戦力が大幅に下がっているわけではない。

 分隊員のうち、三人は新兵だった。年齢は素雪と対して変わらないのだが、経験が違う。素雪は多くの子供が親に抱かれていたころから銃を手にしていたのだ。

 ラインはその新兵の方を見た。さっきの通信兵だった。顔は青白く、表情は恐怖に引きつり、手は小刻みに震えていた。しかし、あくまで冷静に小銃を構えていた。

 今度は素雪の方を見る。顔色や表情に変化は無いが、よく見ると手は小刻みに震えている。

 ラインは次に自分を見た。顔色や表情はわからないから、手を見る。ある程度予想した結果があった。手は小刻みに震えていた。

 つまりは、そういうことなんだな。ラインは思った。たとえ何度戦を重ねようと、芯の部分では人間は変わらないのだ。

 そういえば……。ラインは新兵たちの最初の戦闘を思い出す。つまり、この場所に陣取った一時間後に敵が攻めてきたときの話だ。新兵たちは砲撃の中塹壕で叫び、敵を迎え撃つ時は何か訳の解らぬことを叫びながら引き金を引き、味方が負傷した時は気絶しそうなほどの恐怖を露にしていた。

 それが変わったのは何時からだったか。確か、二度目には最初ほど叫ばなくなっていた。三度目ではほとんど今の状態と変わらない。

 何ということだ。つまり、戦士の心構えなど数回実戦を経験すれば築けてしまうというのか。平和な国では兵士の育成にあれだけ苦労しているというのに!

 だが、残念なのは。ラインは何故戦中において兵士というのは簡単に育つのに、軍の練度は下がっていくのかと考えた末の結論を思った。

 彼らの兵士としての技術が熟練するにはまだまだ時間が必要だ。そして、そのときが来るまでに、たいていの者は死に絶えてしまう。だからこそ、平和な場所で訓練した兵士に戦中の兵士は及ばないのだ。戦度胸など二、三回実戦を経験すれば(個人差はあれど)身につくが、技術はそうはいかない。

 

 敵が戦塵の中より現れた。一見すれば、先ほどの砲撃の効果は全く現れていないように見える。先頭は戦車、次に少ない数だが歩兵戦闘車と兵員輸送車、そして大量の哀れなる歩兵たち。

「距離三〇〇まで引き寄せろ」

 素雪はラインに言った。ラインは素早く頷くと、首にかけていた双眼鏡を使い距離を測った。三〇〇メートルというのはつまり、小銃(と機関銃)の命中の期待出来る距離だ。それ以上になるとどうしても当たらない。弾幕を張る効果はありそうだが、敵が散開していてはさほどの意味を持たない。

 遠くで小銃の射撃音が聞こえた。敵と味方は同じ弾を使う銃を使用しているが、敵ではない。陣地側から聞こえた。

「撃つなよ!」

 ラインは叫んだ。つられて撃つやつが現れないように、だ。おそらく先発砲したのも、敵が迫ってくる精神的重圧(プレッシャー)に耐えられなかったのだろう。理解は出来る。だからといって看過できる行為でもないが。おかげで位置がばれてしまっただろう。

 敵の戦車が発砲した。おそらくオブイェークト219AS――T80U戦車だろう。なかなか高価なものを投入してくれる。シルエットが判断基準だったが、もっと近寄ってくれれば、ガスタービンエンジンの咆哮で確証がもてるだろう。いや、もしかしたらディーゼル搭載のT80UDかもしれないが。

 とにかくどっちにしろ、主砲が五十一口径の一二五ミリ滑腔砲であることには変わりはない。弾数は四十四発だが、異常に高価なあの9K119レフレークスとか言う対戦車誘導ミサイルをおろせばもっと積めているのかもしれない。

 敵の主砲弾が弾着する。対戦車用の装弾筒付翼安定徹甲弾(APDSFS)ではなく歩兵用にも使用できる多目的成形炸薬弾(HEAT−MP)だ。通常榴弾は搭載していないのだろうか? いや、そもそもソ連がHEAT−MPを持っていること自体知らなかったな……。

 効果はそこまで大きくないようだった。弾着した場所の近くには味方一個分隊が隠れていたが、ラインの場所から見る限りでは、被害はほとんど無いように思える。

 次の瞬間、戦車砲の轟音が響いた。味方陣地からだ。味方の戦車――オブイェークト176の名で知られるT72戦車が対戦車砲弾――敵と同じ五十一口径一二五ミリ滑腔砲を発射したのだった。

 普通なら三〇〇〇メートルほど離れて撃ち合うのが戦車戦だが、現在新旧二種類のソ連製戦車の距離は一〇〇〇メートルを切っていた。何もかも、この入り組んだ地形が悪いのだ。

「莫迦な……」

 素雪が呟くように言った。

「どうしました?」

 ラインは訊いた。が、儀礼的な意味がほとんどだった。だいたい何のことを言っているかは解っていたからだ。つまり、新兵たちに分隊長は偉いんだぞということを教えてやろうとしたのだ。

「あんなことをして……位置を曝け出しているようなものだ。敵の照準機がどのくらいの精度か知らないが、あの位置ならせいぜい二輌を撃破するのが精一杯だろう。初弾を外すかもしれない。貴重な戦車を使い潰すべきではない。もっと近寄れば、RPGの援護だって出来るはずなのに」

 素雪の言うとおりになった。味方戦車の放った初弾は外れ、HEATを発射した敵戦車の手前の土を抉り、キャタピラを切断した。この距離で外すとは何とも信じ難い話だったが、搭乗員が余程緊張していたのだろう。いや、もしかしたらプレッシャーに負けて引き金を引いてしまったのかもしれない。

 反面、敵の戦車兵はなかなか有能だった。さすが戦車大国ソ連と言うべきか。キャタピラの切れた戦車だけでなくほかの戦車も、先ほど発砲した戦車のほうへ主砲を旋回させる。厳重にカモフラージュしたはずなのに、先の発砲だけで正確な位置が割り出されてしまったようだ。

 先に発砲したのは味方のT72だった。大まかな照準は完了しているのだから当然だ。そして、今度こそ命中した。APDSFSは敵戦車に吸い込まれるように消え、一瞬置いて敵戦車は大爆発を起こした。距離が近く、命中したのは側面だったからだろう。回転ドラム式の自動装填装置に命中して誘爆したのかもしれない。敵の搭乗員が脱出する時間は無かった。

 だが、それだけだった。爆発の次の瞬間には、敵戦車が三輌、既に味方戦車に照準を付け終えていた。

 チカチカチカと三度光が、次の瞬間轟音が轟く。そして、敵戦車が発射したAPDSFSは全て、味方戦車に命中した。正面装甲に次々に穴が開き、一瞬置いて大爆発を起こす。砲塔が吹き飛び、周囲に破片を撒き散らす。当然、搭乗員は即死だろう。

 この距離だと、一番装甲の厚い正面装甲もほとんど意味が無いらしい。当然か。

「軍曹、距離は」

 素雪がラインに訊く。

「今……四〇〇を切りました。奴らかなり速い」

「おそらく無駄な装備を兵員輸送車かトラックに積んでるんだろう。持ってるのは銃と予備弾と水筒くらいのはずだ」

 素雪は敵を見ながらそう言った。なるほど、それなら結構な速さで移動できるだろう。

「敵、三〇〇、間も無くです」

「全員射撃準備!」

 素雪は叫んだ。同じような号令があちらこちらから上がる。ウェルグラム社の下士官は優秀だ(もちろん士官だってそうだが)。自分たちの役割を理解している。下士官の主な仕事は兵と士官の橋渡し。つまり、普通は兵より若い低級士官(少尉など)に代わって兵士たちを督戦し、士官のスタッフとして兵の願いを伝える。軍隊を人間に譬え士官を脳、兵士を筋肉だとすると、下士官は神経だ。命令を素早く伝達する役割なのだ。

 分隊の兵士たちは銃の照準器を覗いて狙いをつけた。ソ連製の兵器でこの距離だから、まずまともに当たることはないだろうが、無照準で撃ちまくるよりはましだし、自分は狙っているという気分高揚にも繋がる。

「敵……距離三〇〇! 今!」

「第3分隊、射撃開始!」

 兵士たちは一斉に引き金を絞った。軽いとは言い難い反動が肩を蹴る。その反動を押さえ込み、上へ昇ろうとする銃身を押さえつけながら敵兵に掃射を与える。何発に一発か混じっている曳光弾を見ながら、徐々に照準を正確にしていく。敵歩兵は一部が伏せ、残りはそのまま進行してきた。

 効果は……やはり薄かった。散開しながら前進してくる敵兵は、いくら連射出来るとはいえ小銃弾で捉えるのは難しい。装甲車には何の効果も及ぼさない。

 くぐもった音が響いた。何か確認する必要も無い。グレネードを発射したのだ。口径は四十ミリ。射程は四〇〇メートルほど。もっとも、あまり遠すぎては意味が無いので、射撃は小銃と同じ三〇〇メートルとするとしていた。グレネードは敵の真ん中に飛び込んで一回跳ね、空中で炸裂する。近くにいた兵士三人ほどを殺傷したようだった。効果は薄いと言える。

 素雪の銃からガチャリという金属音がした。弾が切れたのだった。素雪は銃についているマガジンを抜き、下に置くと、マガジンポーチから新たなマガジンを取り出す。角の方をヘルメットでトントンと叩き、マガジンの前部と銃の差込口の前部をくっつける。そこから回転させるようにしてマガジンを取り付けた。カチリという音がして、マガジンが固定された。

 素雪は銃を構える。が、直ぐには撃たない。その前に周囲を確認した。

 他の兵士たちは、多くが既にマガジンを空にして、次のマガジンに差し替えている。一人、単発で制圧射撃を行っており、そいつはまだ弾切れしていなかった。

「おい」

 素雪はその男に声をかけた。さっきの通信兵だった。

「そこの君!」

 最初の声で気付かなかったらしく、撃ち続けていた通信兵は驚いたように素雪の方へ振り向いた。

「今は単発で撃つ必要は無い。弾は腐るほどあるし、この距離だと狙ったって当たらない。連射するんだ」

 通信兵は驚いた顔を納得の顔にして、わかりましたと言った後セレクターを連射に切り替えた。再び構えなおし、掃射を始める。

「効果はあまりありませんね……」

 ラインが素雪に言った。そうだな。素雪は簡単に言葉を返し、ラインを見た。マガジンを差し込み終えたところだった。

「お前、銃弾は」

「補給し終わったばかりです」

「じゃあ撃て」

 ええ、もちろん。ラインは快くそう答えると、銃を構えなおし引き金を引いた。遠くの方で敵兵が倒れた。

 

 戦車が三〇〇メートル圏内に接近した。搭載されている一二・七ミリと七・六二ミリ機関銃は火を吹いている。数は六輌。一〇〇輌近くあるはずなので、ごく一部ということだ。だが、第1小銃中隊中隊長はそれを看過しなかった。すぐさま通信分隊と幕僚に、隷下の部隊に命令を下させる。

「対戦車小隊、直ちに攻撃開始!」

 一個中隊に一個の割合で配備されている対戦車小隊はその命令を直ちに実行した。名前のとおり、対戦車ロケットと自衛用の小銃で武装した部隊だ。

「全員、発射準備! 第1分隊はA1へ、残りはE3へ位置を変更」

 小隊長は隷下の分隊に命じる。彼の忠実な兵士たちは直ちにその命令を実行した。指定された場所へ、重い対戦車ロケットを担ぎながら交通壕を走って素早く移動する。配置に着くと、ロケット弾頭の安全ピンを抜き、狙いをつける。移動している戦車を誘導装置の付いていない対戦車ロケットで撃破するのは難しい。正面装甲ならなおさらだ。それに敵は、こういった対戦車ロケットの弾頭、ノイマン・モンロー効果を使用した対戦車兵器HEATを防御するために開発された反応(リアクティヴ)装甲(アーマー)を追加装備していた。

 今兵士たちが持っていたのは、その反応装甲に対抗する為に開発されたタンデム弾頭型の弾頭だったが、それはつまり威力が下がってしまうことを意味する。タンデム弾頭とは弾頭一つ分のスペースに二つ積んでいるようなものなのだ。

 ならば、側面を攻撃するほか無い。しかし、どうするべきか。

 小隊長と兵士たちはその点を取り違えなかった。

「第1分隊、横合いからぶち込め!」

 小隊長は命じた。第1分隊は彼の指揮できる分隊の中でも最も左端に存在した。しかし、側面装甲を狙えるような場所ではない。

 第1小隊はアイアンサイトで敵に照準をつけると、トリガーを引いた。ロケットは発射後僅かな時間で加速し、三〇〇メートル向うにいる敵に向かって飛んでいった。数は五つ。

 その内、四本は地面で爆発した。当然だった。移動目標にロケット弾をぶつけるのは、それがたとえ距離三〇〇でも簡単なことではない。よって、この際は命中した一発を褒めるべきだろう。

 しかし、その一発も満足のいく効果は上げられなかった。敵の砲塔前部に命中したそれは、そこについている反応装甲を吹き飛ばし、複合装甲に穴を開けた。しかし、貫くことは出来なかった。いろいろな材質が組み合わさって出来ている厚い砲塔装甲内でメタルジェットはあらゆる方向に曲げられ、その勢いを急速に衰えさせられ、装甲の中ほどで消滅した。

 敵戦車六輌は停車すると、砲塔を旋回させる。今攻撃があった方向へ主砲を向けた。生意気な歩兵どもめ。一撃で吹き飛ばしてやる。そう思っていたかどうかは不明だが、とにかく、攻撃の意思があったことは確かだった。

 小隊の残りが動いたのはその時だった。

「第2から第4分隊、やれ!」

 第1分隊とはほとんど反対側と言っていい位置にいた残りの部隊は、停止した為に狙いがつけやすくなった敵部隊に対してロケット弾を発射する。しかも砲塔は旋回し、ちょうど反対側を向いていた。一番装甲の薄い部分だった。

 ロケット弾は命中した。発射されたのは十五発。その内、八発が命中した。命中率はほぼ五十パーセント。この距離で制止目標に対して行った発射と考えると、やや悪いような気がする。しかし、照準の時間の短さを考慮に入れれば、そう悪い数ではない。何より、全ての敵にロケット弾を命中させることが出来た。

 効果があったのは五輌。その内、戦闘能力を完全に剥奪できたのは四輌だった。八発の内、四発は砲塔に命中し、三発は車体に、残り一発はキャタピラを切断した。効果があった戦車のうち、戦闘能力を剥奪できた四輌は、砲塔または車体をメタルジェットが貫通し、内部のモノ(それはタンパク質の塊であったり半導体の塊であったり金属の塊であったりした)を破壊した。剥奪できなかった一両は、キャタピラを切られるに留まっていた。しかし、もう動くことは出来ない。

 効果のなかった一両は、命中する角度が悪かった。砲塔に命中したのだが、メタルジェットが内部を傷つけることがなかったのだ。

 しかし、効果は充分と言えた。塹壕のあちらこちらから歓声が上がる。

 

「頃合いだな」

 素雪は呟くように言った。敵はかなり近づいていた。

「地雷を仕掛けさせました。対戦車と、人間用のボールベアリングばら撒くヤツです」

 ラインは素早く言った。二人とも、既に射撃を止めて指揮に専念していた。分隊という規模で考えれば、本来ならば指揮官たる二人も射撃をすべきなのだが、指揮内容が複雑なのと、部下に新兵が混じっているので、それは適わなかった。

「全員に撤退準備を。弾丸は?」

「かなりありますね」

 ラインは塹壕の底においてある弾丸の入った箱を指差した。確かに、腐るほどあるという素雪の表現は正しかった。箱の中には三十発入るマガジンに詰った弾丸が大量においてある。マガジンの数は一〇〇近くありそうだった。

「十四個までだ。あまり持たせすぎるな。出来れば十個以下がいいが、それでは不安が残るやつもいるだろう」

「小銃はどうします?」

 ラインは弾丸の横においてある予備の小銃を指差しながらいった。

「適当に取り替えさせろ。銃身が加熱しすぎているだろう」

「はい、曹長」

 ラインが軍隊式に了解を示した時、射撃を止めて通信機に取り付いていた通信兵が報告した。

「分隊長、小隊本部より通信」

「どうぞ」

 素雪は丁寧な調子で促した。

「直ちに撤退、とのことです」

「ちょっと貸せ」

 素雪はそう言い、通信兵から通信機の送受話器を奪い取る。

「分隊長です」

「撤退だ、軍曹」

 受話器の向うの相手は言った。

「俺は曹長です」

 素雪は一応言い返す。

「む? 野戦昇進でもしたのか? まぁいいさ。命令だ。撤退しろ、曹長」

 この言い方、もしや将校か? じゃあ、小隊長自ら通信を? 理由は何だ? 通信兵が負傷したのか?

 素雪はそれらのことを考えたが、すぐに意識的に頭の外に追い出した。命令の実行が先だ。

「了解しました」

「ああ、出来れば……」

 小隊長(らしき人物)が何か言いかけたが、素雪はそれを遮って続けた。

「地雷は仕掛けさせてます。対人は塹壕内部と外に、対戦車は外だけに。後は信管を起動させるだけです」

「む、そうか」

 小隊長は納得したように頷いた。

 小隊長と言うことは少尉のはずだが、何でこんなに偉そうな態度が身についているんだ? 素雪は不思議に思った。下士官上がりなのか、はたまた性格なのか。

「じゃあ、さっさと撤退だ」

「はい、小隊長殿。村までですね」

 素雪が相手の立場を決め付けてそう言うと、小隊長は驚いたような顔をして(素雪には見えないから、息を呑む音でそうあたりをつけた)、

「あ、ああ。そうだ」

 つまりは、撤退だけ指示して何処へ撤退するのかを伝え忘れたわけだ。まぁ、別にいいさ。

はい(イエス)小隊長殿(サー)

 素雪は下士官という鋳型にでも使えるような態度で応じると、送受話器を通信兵に返した。ラインを呼ぶ。

「軍曹」

「準備は出来とります」

 ラインは素早く答えた。素雪が辺りを見ると、なるほど、皆がバックパックを背負っている。地雷は既に仕掛け終えたようだ。

「区画封鎖は?」

「現在通達しています」

 ラインが答え、通信兵を示す。確かに彼は、忙しげに会話をしていた。小隊か中隊か知らないが、同業者と連絡を取り合っているんだろう。

「分隊長殿、ここから直接カベルへ行く道は、既に封鎖済みです。B3を迂回する必要があります」

 通信兵が言った。素雪はうん、ありがとうと言うと地図を取り出した。

「急いだほうが良いな。敵が来る」

「どころではありませんよ。既に突撃体勢に入りそうです」

 ラインは敵情を見ながら言った。言葉どおり、敵はもう目前まで迫っていた。どんな人間でも、戦って死ぬより逃げて生きたほうが後の可能性が開けるのは変わらない。

「分隊集合」

 素雪はバックパックを背負いつつ言った。既に分隊は集合しているから、儀礼的な意味以外の何物でもない。

「これより、戦略的撤退に移る」

 厳かな口調でそう告げたあと、幾らか砕けた表情になって、

「まぁ、逃げると言うことだ」

 そう言った。失笑が起こる。兵士たちは、素雪が普段冗談を口にしない性質の人間だと知っているからなおさらだった。

「着いて来い。死にたくなければ」

 素雪は最後にそう言い、塹壕の中を駆けた。全員後についてくる。一番後ろはラインだ。落伍する者がいないように見張るためだった。

 第2独立大隊第1小銃中隊第2小隊第3分隊は命令の後、早々と持ち場から立ち去った。

 

「あの後だよ」

 ラインは言った。飲んでるのは酒ではないだろうが、どこか酔ったような口調だった。

「お前が本当にすごかったのは」

「何のことだ?」

 素雪はとぼけたように訊いた。

「冗談はよしてくれ、素雪。アンタの指揮のおかげで、俺たちは今も生き残ってられるんだ」

 ラインは真面目な声で言う。本当にそう思っていた。

 

 素雪率いる分隊が町に撤退した時、アフガン軍全体が崩れるように撤退を始めた。敵の増援が到着し、戦線が崩壊しかけていたのだ。とはいっても、別にソ連陸軍が奇抜な戦術を使って崩壊させたわけではない。増援と思われる部隊(一個師団規模)まで投入し、強引に抜いたのだ。元々数箇所に戦力を集中していただけあって、アフガン軍は耐えることが出来なかった。

 その際に生じた被害は約一〇〇〇名。その中に第2独立大隊所属の兵士は一人もいなかった。総攻撃を予想し、全員が素早く撤退したからだった。

 これを怯懦と呼ぶかどうかは、判断が分かれるところだ。無駄な戦闘を嫌い、さっさと撤退したのは褒めるべきだろう。あの場所で踏ん張っていたとしても、いずれは抜かれるどころか、包囲殲滅すら考えられた。

 確かに、主力を見捨てて勝手に撤退したとも取れる行動だった。しかし、師団本部にその旨を通達しても、受け入れられなかったことは確かだった。師団本部は防衛線を維持し、その場で完全に進行を阻止するつもりでいたからだ。

 これは、もちろん全く無謀な行為だった。敵と味方はそれほど戦力が隔絶していた。俯瞰的に見てみれば、師団本部の決定は愚かとしか言いようがなかった。大隊の行動こそ、戦術的、いや、戦略的に正しい行動だっただろう。

 しかし、アフガンには引けないわけもあった。場所が問題だった。カベル村北方に展開したアフガン軍は、この周辺にいる唯一のまとまった部隊だったからだ。そして、あの時師団が張っていた防衛線を越え、カベルを越えれば、アフガンの首都カブールはすぐそこだった。

 いや、カベル村は山間の町で、谷いっぱいに広がっていた。だから、市内に防衛線を張って、そこでソ連陸軍を貼り付けていてもソ連を拘束することも出来ただろう。敵には航空援護はなかったし(制空権は何とかアフガンが確保していた)、戦車はちゃんとした市街戦での戦術と経験が無ければ市内では活躍できない。そして、敵にそれは無かった。

 だが、敵に直ぐそこまで迫られている国防軍にそこまで求めるのは酷というものだろう。そういう意味、つまり人間の心理と言う意味では師団長の気持ちも解らないでもない。彼はアフガンで生まれアフガンで育った愛国者だった。

 結果、師団は人数から言えば戦力をほぼ喪失したと言っても良かった。負傷者は死者の三倍に昇ったし、重兵器はそのほとんどを喪失してしまった。

 だからその中で、第2独立大隊が無傷で撤退できたのは奇跡と言ってもよかった。もちろん、現実は奇跡などではない。情報を収集して可能性を考え、計算し、ベターな手段を選んだだけだ(けしてベストではない)。

 

「お前ほど市街戦に適した指揮官もいなかったと思うぜ」

「そう思うか?」

 素雪は質問で返す。多少の諧謔を含んだ声だった。ラインは戦場での素雪が、同じような口調をしたことがあるのを思い出した。精神だけが戦場に戻っているのかと思った。素雪の眼は、何処か遠くを見るようだった。

「街中のごちゃごちゃとした通り。村とは思えないほど密集した地帯」

 ラインも素雪と同じように精神だけを戦場に戻してみた。驚くほど生々しい記憶が蘇ってきて驚いた。戦場はこんなにも自分の身近にあったのかと思った。少しだけ悲しくなり、同時に安心した。現役の傭兵にとって精神の弛緩ほど、恐ろしいものはないからだ。

「お前の指揮で何人が助かったか」

「狙撃兵が多かったのには驚いたな」

逆狙撃(カウンタースナイプ)をいとも簡単に行ったお前にも驚いたよ」

 ラインは市街戦での素雪を思い出した。指揮官筆頭で行動した彼は、的確な指揮で部隊を(と言っても分隊だが)導いた。潜む敵兵やスナイパーを素早く発見しては、狙撃でかたずけていった。狙撃精度はけして天才的とは言えないまでも、ただの傭兵としては素晴らしい腕前で敵を狙撃していった(もちろん、部下に手伝わせることもあった)。

「お前の腕前はいつもそうだった」

 ラインは重ねて言った。しかし、良く見れば僅かに周囲を警戒している。素雪はひっそりと身を固くした。

「ジャングルでも。覚えているだろう。中南米の――なんだったか?」

「ベリーズとグァテマラの国境だ。エルサルバドルから逃亡した反政府組織を追っていったやつだろ」

 素雪はさらりと答えて見せた。素雪が南米に行ったのはその一度だけだったからだ。エルサルバドル政府に雇われてのことだった。大戦の影響で内戦が勃発していたそこは、ジャングルの中でさえ(いや、だからこそ)、全く安全ではなかった。

「ああ、それだ。お前は狙撃兵の芋ずる式戦法を逆狙撃で倒して見せた。あの時は少尉だったな」

「そうだよ。お前は特務曹長。小隊本部付最先任下士官だった。小隊でこんな地位と言うのも笑える話だがね」

 素雪は全く諧謔を含まぬ口調でそう言うと、ラインを視線の中央に据えた。先よりも周囲に警戒しているように見える。素雪は僅かに腕を動かし、いつでもホルスターに腕を伸ばせるようにした。

「そういえば、今お前?」

「ははん。聞いて驚くな。何と大尉殿だ」

 素雪は顔に僅かに驚きの表情を浮かべる。つまり、彼は本気で驚いていた。しかし、莫迦正直に驚きを相手に伝えるのも、彼の趣味ではなかった。彼は自分の中に存在する、強くはあるが表に出る機会はあまり無い諧謔を呼んだ。

「ほぅ。驚いたな」

「だろう?」

「当然だ」素雪は言った。

 口元には歪みを浮かべている。

「未だそんな地位だったのか? 既に少佐殿か中佐殿になってるのかと思った」

 ラインは逆に驚いた表情を浮かべた。兵卒から叩き上げで士官になったならば、大尉でも充分に高い地位だ。兵卒の少佐や中佐などまともな軍隊ならば数えるほどしかいない。

 しばらくそのままの表情を続け、糸が切れたように笑い出した。

「なるほど。はは。そいつは悪かったですな、中隊長殿」

 ラインは最後に素雪の部隊に配属されていた時の素雪の階級で彼を呼んだ。素雪は平然と答えた。

「今の俺はただの一等軍曹さ。それ以上でも、以下でも無い」

 ラインはふんと鼻を鳴らす。元々それなりにハンサムなだけに、様になっているといってもいい。

「日本と言う国はあんたの価値を解っていないんだな」

「適材適所かどうかはしらんよ。俺は人事に関わりがない」

「いや、でもな」

 ラインはいくらか諧謔を含んだ表情で言った。

「お前をここにやった日本政府は正しいよ」

「何を知っている?」

 素雪は有無を言わさぬ迫力で訊いた。詰問に近い口調だ。先ほどまでの親しげな表情は消えている。

「……やっぱ、意図的だったのか」

 ラインは呟くように言った。

「情報を流したことか?」

「ある程度油断させることが必要だろう?」

 素雪はきつい視線を浴びせたまま言う。右手は既にホルスターに触れていた。

「で、何を知っている?」

「例えばジャングルの中の奴らか?」

 素雪は左手を袖口に入れた。内側に仕込んでいるナイフをいつでも取れるようにした。素雪は暇を見つけてはナイフを投げる練習をしていたから、それなりに自信はあった。銃よりもよっぽど安全だと思った。もちろん、ナイフ投げなど訓練のカリキュラムには無いから、一〇〇パーセント彼の趣味だ。

「知ってるか?」

「何をだ」

 素雪は警戒を解かずに、ラインを観察しながら質問に質問で答えた。ラインは身構えた様子は先と変わらないが、その警戒は周囲に向けられてた。

 周囲? 素雪は不思議に思い、周囲を観察した。もちろん、ラインに視線を据えたまま。

「この辺りは自治領だろ」

「ああ」

 そう、中華民国が新たに獲得した領土は一応現地民自治領という扱いになっている。しかし、実際は自治領の議会に権利は無いに等しい。今回の自衛隊への依頼も、中華民国からきたものだ。

「お前、自治領が完全に無能だと思ってるだろ」

「無能と言うか、権利が無いだけだろう」

 素雪は驚きを内心に留めてそう答えた。周囲は囲まれていた。五人……いや、十人はいるだろう。ラインの後ろのテーブルに座っている四人。あの特別に練度の高いだろう奴らを含めれば十四人。ラインも入れたら十五人か。どうするべきか。

「いや、結構やる気はあるぜ」

 ラインは何か根拠がある風に言った。

「何が根拠だ?」

 素雪はそれを訊いた。

「まさか。確りと行動を起こしてるぜ。自治領だって治安の悪化を快く思ってはいない」

「何をしたと言うんだ?」

 ラインはニヤリとした。

「優秀な傭兵を一個中隊雇った。テロリスト駆逐の為にな」

 素雪はハッとした。しかし、警戒は解かない。

「なるほど。証明できるのか?」

「外にいるな」

「十人。お前の後ろに四人。俺の後ろには?」

「いないよ」

 ラインは当然という風に言った。何故そんなに自信満々なんだ? 素雪は思った。

「さてと。そろそろかな? 行こうか?」

 やや大きい声でラインがそう言うと、後ろの四人が立った。素雪は左袖のナイフを摘んだ。いつでも投げれる。

「安心しろよ」

 ラインが言ったとおり、四人は素雪たちと反対方向に歩き出した。しかしその際、四人の中に一人が振り向いた。顔は笑っていた。素雪は驚いた。知り合いだったからだ。

「オッドフィールド伍長……」

「今はオッドフィールド特務曹長だ。うちの中隊の最先任下士官だよ」

 素雪は驚いた顔をラインに向けた。ラインは未だ笑っていた。

「まぁ……」

 そう呟き、顔を真剣なものに戻す。

「外にいる十人はテロリストだ。今片付ける」

「………」

 素雪はしばらく周囲に神経を尖らせた。鞄の中に入っていた携帯電話が鳴ったのはその時だった。着信音楽に指定しているJポップの曲が物悲しいのか楽しいのか判断のつきかねぬ音楽を奏でる。素雪はびくりとし、鞄の中から携帯電話を取り出した。一見すれば日本製の少し古いタイプの市販品だが、実体は衛星通信やGPS機能の搭載された自衛隊の機材だ。ハッキリ言って、完全に開発部の趣味の人が作ったものだった。

「へぇ。お前もそういう曲を好むのか」

 ラインは意外そうな顔をしてその音楽を聴いた。

「上官から進められてね」

 素雪はさほど変わらぬ年頃の連隊首席幕僚を思い出した。素雪さん、この通信機は普通の携帯としての機能も有してましてね、着信音楽もネットでダウンロードできるんですよ。

「どうした?」

「いや」

 素雪は携帯のボタンを押し、電話に出た。

「はい」

 周囲の警戒を怠らず、電話に出る。

「素雪か」

 相手はターネス三佐本人だった。

「三佐。何です?」

 素雪は訊いた。答えの想像はついた。

「時間が早まった。戻って来い」

「突然ですね。どうしました?」

 ターネスはふんと鼻を鳴らした。

「自治領が勝手に傭兵を雇っていたんだ。ちょっと自治領議会と問題が起こってな。さっさと解決しなきゃいけないことになった。傭兵の隊長も出かけてて、話がつかなくてな……」

 素雪はラインを見る。彼は笑っていた。友人を罠にかけた悪がきのような笑みだった。

「三佐、その傭兵隊長の名は?」

「うん? ああ、ラインハルト大尉だ。中東アジアや中南米、それからアフリカで活躍した傭兵らしいな。お前、面識無いか? お前もそうなんだろう?」

 ターネスの言葉には期待は全く含まれていなかった。つまり、ただ言ってみただけなのだろう。

「ええ、まぁ」

「……? まあいい。とにかく、直ぐに戻って来い」

「はい、三佐殿」

 素雪は携帯電話を閉じた。鞄に入れ、ラインを睨む。

「何だって?」

「お前のせいで予定が早まった。直ぐに行かなきゃならない。しかも、向うはお前がいないせいで話がつかないらしい」

 ラインは眉を寄せた。

「それは……拙かったな」

「ああ、拙いさ」

 素雪は言うと、立ち上がった。ラインも同様にする。

「全部は無理かもしれん」

 ラインは言った。先見張っていた(もしくは機を待って襲い掛かろうとしていた)テロリストたちのことを言っていた。

「あれは何なんだ?」

「目標は俺だ。俺たちは、お前らほど情報管理に熱心なわけじゃない」

 ラインはそういった後、ニヤリとして続けた。

「お前たちの情報も、本当に入手に苦労したぜ。とは言ってもその情報も、なんとなくそんな気配があっただけだから、今日お前に出会うまで本当に判らなかった」

「俺のせいでこっちまでばれたかな?」

「あー、どうだろうな」

 ラインは視線を中に彷徨わせて言った。

「多分大丈夫だろ。会話は聞かれてないと思うから、いや、聞かれていたとしても、知己だと思われる程度だろう」

「安心したよ。ある程度は」

「まぁ、完璧主義者のお前からすればきついかもな。こういう状況は」

 お前だって完璧主義者じゃないか。素雪は内心で反論した。

「さて、何か武器は?」

「銃とナイフだ」

 素雪は正直に答えた。ラインは少し口元を歪めて見せた。笑ったのだ。

「そういうお前は?」

「これさ」

 そう言って、席の横においてあった細長いケースを取る。一見すると釣具入れか何かに見えるが、

「ライフルか? ショットガンか? まさかマシンガンじゃないだろうな?」

 素雪は的確に見抜いた。ラインは口元の歪みをさらに大きくする。

「ライフル。M15だよ」

 素雪はさも当然そうにふぅんと言った。

「何だよ」

「いや、流石だなと思ってな。高いだろ」

 事実だった。一挺五万円のライフルは、そんじょそこらの傭兵がほいほいと入手できるものではない。吝嗇如何に関わらず、だ。

「うちは全員使ってんだぜ」

 ラインは誇るように言った。素雪は誇って当然だと思った。

銃声抑制装置(サウンドサプレッサー)は?」

「ある。性能は微妙だが、これだけ賑やかなら」

「どうかな? 賑やかさが逆に命取りになるかも」

 素雪はマーフィーの法則と言う言葉を思い出した。ちくしょう、なんて悲観的な物の見方なんだ。シャイセ。

「とにかく、帰れればそれでいいさ」

 素雪はそう言った。

「ああ、そうだな」

 ラインは言い、表情を兵隊のものにした。

「さて、何処までお送りしましょうか、中隊長殿」

「ホテルの近くまで頼む。後は自分でいける」

 素雪はそう答え、そういえばと呟いた。

「テロリストたちはお前たちが来ているのを知っているわけだ」

「まぁ、中隊長を捕らえているのだからな」

 ラインは事も無げに答える。素雪は憮然とした表情を作った。

「じゃあ、既にテロリストの基地は警戒態勢に入ってるということじゃないか……」

 ラインはああ、それかと言った。

「一応、今は情報収集の段階で、行動開始はまだまだ先だという情報をリークしておいたが」

「相手がどこまで信用するかな」

 素雪は吐き捨てるように言った。

「少なくとも総指揮官は逃げてるだろうな。シャイセ、一網打尽にするつもりだったんだが」

「悪いな」

 ラインが言うと、素雪は何を言うんだという顔をした。

「お前が悪いわけじゃないがね。まぁ、残党だけでも掃討するさ」

「そういってもらえると助かる」

 ラインはすまなさそうに言った。

「とにかく、俺たちは町の治安維持に当たってやるよ」

「治安維持?」

 素雪は不思議そうな声を出したが、直ぐに思い当たった。

 テロリストの本拠を制圧した場合、残念ながらその全てを殲滅することは出来ない。当然だ。所詮、特殊部隊の包囲網などその名のとおり網にすぎない。固まっている岩は捕まえられても、砂粒まではどうしようもないのだ。

 そして、包囲から逃れた者たちはどうなるか? ある者は組織を捨ててもとの生活に戻り、ある者は別の組織に帰り、ある者は新たな組織を作ろうとする。しかしその中の僅かな少しは、過激な組織内の高階級者に率いられ、過激な行動を起こす。事実、テロ組織の本拠地を壊滅させた為に治安が悪くなってしまった国はあまりにも多い。

 特別師団は、組織壊滅後の治安維持を現地警察に任せるつもりだった。もちろん、現地警察にテロリストたちの完全封鎖なんて出来るわけがない。そして、特別師団はそれを良く理解していた。

 つまり、組織壊滅後の地域の一時的な治安悪化を、ある程度看過していたのだ。

 何故か。容易に想像がついた。たとえこの地域の治安が悪化したとしても、日本がテロの嵐に襲われることはなくなるからだ。

 つまりは、怯懦と呼ばれるほど自己中心的な考えだ。だが、一概にそれを悪いとは言えない。国家とは、つまりは国民の人間的な生活をいかなる手段を用いても護るものである(少なくとも日本はそうだ。日本国憲法には国民の権利としてそれが記されている。そして憲法とは国家の最高法規だ。つまり絶対に守るべきものである)。

 しかし、その町の治安維持をラインも行ってくれるというのだ。

 これは、ハッキリ言って作戦には何の関係も無い。だが、少なくとも精神的重圧を軽減させる効果はある。

 特別隊員は、特殊部隊的な訓練で肉体、精神共に鍛えているとはいえ、所詮は人間だ。そして、当然の如く愚かなものはいない(そうでなければ特殊部隊員になどなれない)。つまり、自分たちがテロ組織を壊滅させることで、自分たちが今滞在している町がどのような影響を受けるか重々理解しているのだ。

 もちろん、その時の感情を頭でのみ感じ計算にのみ使用して、けっして肉の内側にある何かで理解しないようにすることは出来る。そうでなければ軍人など勤められない(自衛官は軍人ではないが、所詮は詭弁だ)。

 しかし、個人差はあれどそれによって負う精神的ダメージがあることは否定できない。自分たちのせいで罪の無い人間が死ぬかもしれないのだから、仕方のないことだ。そして、それが後々の部隊全体に悪影響を及ぼすことも。

 ラインはそれをある程度払拭してくれるというのだ。ありがたいことではあった。戦術的意味は無いが戦略的意味はある行動というヤツだろう。長期的な目で見れば、それなりの効果をもたらしてくれそうであった。

 そして、素雪はそれに気付かないほど愚か者ではなかったということだ。

「ああ、ありがとう」

 素雪は、人によっては容易に現せる優しい態度で例を言った。人によっては、ひどく無愛想なところのある素雪にしては珍しい態度だと言うだろう。

 素雪はその優しげな表情を厳しいものに変え、言った。

「さて、行くか」

 厳かな態度でそういう。ラインもそれに合わせた顔を作る。

「ああ、そうだな」

 二人は店を出た。いつでも武器を構えられる体勢だったことは言うまでもない。

 

 

 

 

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