集団の理―― People crazy to what they want to do , or a things to do.

 

 

 2017年 1220

 

 チャイムの音が聞こえる。

 キーン・コーン・カーン・コーン。これって、確かビッグベンの音なんだっけな? 英国には一度行ったことがあるけど、ビッグベンには――ロンドンには行かなかったな。

 素雪は目の前で行われている光景を無視し、心中で思考した。

 ビッグベン、つまり英国国会議事堂は、確か一回焼けたんだっけ? それで再建して……十八世紀だっけな? 違ったような気がする。ビッグベンもいいが、バッキンガム宮殿(パレス)にも行って見たいな。近い場所だから、ぜんぜん平気か。じゃあ、ロンドンビッグアイにも乗って……。

「こら、SHR終わったよ、素雪」

 素雪の思考は、途中で、頭上より振り下ろされる教科書により遮られた。コツン、という音がする。頭蓋骨が頭皮を挟んで教科書と衝突し、たてた音だった。

 しかし素雪は、痛いなぁ、と思っただけだった。が、一応大げさに痛がっておく。

「……痛い」

 念を押しておくが、素雪は“大げさ”に痛がったつもりである。

「痛いようにしてるのよ」

 後ろから、先ほど素雪を小突いた声が響く。

「じゃあ、痛くない」

「痛いって言ったじゃない!」

 後ろから怒った声。

 素雪は後ろを振り向いた。

「聞かなかったことにしてくれ」

 素雪は、先ほどから自分と会話をしている少女を視界に捕らえる。

 身長は一六〇センチ弱。体格は年齢相応。よって、体重も相応。容姿は秀麗と言っても良いだろう。スタイルも、女性としての問題は皆無。髪は肩に掛かるほど。

 頭脳の方も、何の問題も無い。彼女はこのクラスの、一年E組の学級委員長なるものを勤めていたし、期末・中間テストでは、全ての科目で、二十位以内しか載らない順位表(最近はプライバシー云々の為、点数を表記しない)の中に名前を見ることが出来る。これで運動神経も悪くないのだ。

 まぁ、天才の類なのだろう。

 しかしながら彼女は今、怖い顔をして素雪を見ていた。

「私はまだ耳がおかしくなるほど年取って無いんだけど……?」

「見れば解るよ」

「そう」

 彼女は冷たく言い放つと、素雪を、やっぱり冷たい眼で見下ろした。

 が、素雪は何の反応も示さない。冷たい眼には慣れていた……だけが理由ではない。彼にとっては、一般高校生の作る“冷たい眼”等、“冷たい”の形容詞を用いるうちに入らないのだ。

 加えて、ここでどのような反応をすれば、彼女に摑まらずこの教室を出れるのかが解らないというのもあった。

「む……」

 彼女は、素雪の反応に少々戸惑ったようだった。何で何の反応も無いのよ。体中でそう訊いている。

 素雪は何も言わず、教科書を鞄に収めた。市立浜崎高校のSHRは終了した。部活にも参加しない素雪は、後は帰宅するだけなのだ。

 

 自衛隊員たる素雪が日本の高校に通っているのには、幾つかの理由がある。その最たるものは、彼の年齢だった。そして、所属の特異性。書類上での彼の年齢は成人だが、残念なことに、外見は嘯けない。

 そして、その年齢でカヴァーストーリーを作るのは、決して楽なことではない。十七で就ける一般的な職業など少ないからだ。いや、そもそもたった十七で職を持っている者が既に、珍しい。

 ならば、その珍しく無い側にしてしまえばいい。そういうことだった。

 しかし、そうなると、新たに面倒な問題が露出する。

 学生と言うのは、そのカヴァーストーリーがばれやすいのだ。他の職業に比べて。

 例えば一般企業なら、その性質上、どんな人数でも、起こすことが出来る。実績も贈呈しやすい。自宅勤務(HO)として、家で仕事をすることも出来る。出張で、世界中あちこち行くことも出来る。

 しかし、学生は学校に拘束される。また、簡単には作れないし、書類に名前だけ載せるのも容易ではない。

 

―――じゃあ、実際に通っちまえよ。

 

 そう言ったのは、哲也だったか。

 とにかくその言葉により、素雪の学校通いが決まったのであった。

 ……本来ならば、もっと他にやり方があったはずだ。例えば夜間高校にするとか、単位制の高校にするとか。

 とにかく、公立の一般高校など、まともな選択ではないのだ。変でないようにと高校通いを選んだのに、わざわざ不自然になってしまう選択を選ぶとは、本末転倒ではないか。

 そういうことで、素雪の内心には不満があった。まったく、何だって上は――紫三将や川内一佐は、こんな非合理な選択をしたんだ。初めの頃は常に不満を感じていた。

 もちろん今だって不満を感じている。学校に通っているからといっても、ディスクワークが無くなるわけではないのだ(減らしてはもらっている)。だが、ただただ不満を感じるだけでもなくなっていた。

 学校という場所も、それほど悪い場所じゃない。そう思うようになっていた。普段素雪は、仕事の無い時間、特に何をするでもなく時間を過ごしていた。本を読んだり、ゲームをすることはあれど、張りのある時間ではなかった。

 だが学校は、確かに面白く無い部分もあるが、たいていにおいて、そこそこ楽しい。クラスメイトとくだらない会話を交わすこともあるし、楽しいとは言いかねる授業を受けることもある。

 どちらも、どう考えても無駄なことだった。が、その無駄な時間が、言い様の無い大切さを孕んでいるように感じられた。

 そう、例えばこういう時間も……。

 

「うん、解ってる。……悪かったよ、北村」

「え……? あぁ、うん、そうよ。謝ればいいのよ」

 彼女――北村千奈美は、そう言われて驚いたのか、それとも他の理由か、口ごもって答えた。

「へぇ。素雪がそんな言い様するのは珍しいな」

「本当ね。雪君、どうしたの、今日は」

 横で見ていたらしいクラスメイト二人が、声をかけてきた。

 それぞれ、秋田誠人と佐伯エリ。

 秋田は、身長一七八センチの、素雪よりやや高い、スポーツと格闘技で作り上げた肉体を持つ男だった。柔道一段、剣道一級、少林寺二級、空手初段という、すごい意外にどう表現していいのか迷う肩書きを持っている。実際したところを見たことは無いが、喧嘩をすれば強いのだろう。

 佐伯は、美人と言うよりも可愛いといったほうが正しい女の子だった。身長は一五〇センチ前後。もちろん十六、七歳だろうが、それよりも二つは幼く見えた。喋り方や仕草なども、幼さを残している。髪は長めだ。腰までではないが、背中の中ごろまで、茶色っぽい髪を伸ばしている。

 

「無駄な時間が無いんだよ、今」

 素雪は簡単に答えた。用意の終わった鞄を持って、立ち上がる。

「時間が無いって……忙しいのか?」

「ああ。バイト」

「ふぅん。大変だなぁ」

 秋田はしみじみと言う。佐伯はハッとしたようにして、

「ああ、雪君って親御さんと離れて暮らしてるんだっけ?」

 雪君と言うのは、佐伯がつけた素雪の渾名だった。個人的に不快ではないが、素雪はどうも哲也にだけは聞かれたくないと思っていた。ああ、吾妻も嫌だな。

「実家は、広島だっけ? 大変ね」

 北村が言った。

 両親は商社マンで、共働き。広島に実家があり、そこそこ裕福。それ故、横浜に一人暮らしし、学校に通っている。……素雪のカヴァーストーリーだった。カヴァーストーリーを作るため、新たなカヴァーストーリーを作る。無意味に面倒くさいが、何重にも誤魔化された本当の身分は、実にばれにくいだろうと予想された。良いことだった。

 ちなみにバイトというのは、もちろん彼の本業のことである。

「大変だなぁ、お前のバイトは。事務手伝いだっけ?」

「ああ」素雪は首肯した。

 事務手伝いのバイト先企業は、情報収集団のカヴァー企業の一つだった。要するに、バイトと称して本業をしているわけだ。

「バイトに忙しいのはいいけどな、明日の約束覚えてるか?」

「ああ、大丈夫だよ」

 秋田の言葉に、素雪は静かに肯定した。北村と佐伯はそれに反応する。

「約束? 何の?」

 北村が聞いた。素雪は鞄を首にかけながら答える。

「一緒にCDを買いに行こうっていう約束。ほら、最近――がアルバム出しただろう?」

 素雪は、有名歌手の名前を言った。

 北村は首をひねったが、佐伯はすぐに頷いた。

「ああ。雪君も好きなの?」

「うん」素雪は頷く。

 北村は、音楽関係に疎い。聴く音楽がせいぜいクラシックと言うのが、それを裏付けている。対して、佐伯と、秋田と、驚くべきことに素雪は、それなりに音楽を聞く。Jポップや洋楽など、気が合う部分も多い。秋田と素雪は他にも、ゲームや小説などで、趣味の重なる部分がある。

 そういうわけだから、良く一緒に街に――横浜や、場合によっては東京まで行くこともある。

「へぇ。アルバムかぁ……。私も行こうかな」

「じゃあ、明日一緒に来るか?」

「え? 秋田君、いいの?」

「俺は別に。素雪は?」

「かまわんよ」

 秋田の言葉に、素雪は了承の意を示す。佐伯は嬉しそうな声を出した。

「わー。ありがとう」

「いやいや」

「うん、どうも」

 秋田は笑って、素雪は無表情にそう言った。

「音楽ねぇ……。もしかしてあんたたち、音楽聴きながら勉強するタイプ?」

 北村が訊く。

「まさか。なぁ」

「ああ」

 秋田と素雪は当然という風に答えた。

「そんな事したら、頭に入らないだろう。クラシックなら別だろうけど」

「曲にもよるわよ。クラシックも」

 北村は、両手の平を肩の高さまで上げ、呆れのポーズを作る。

「まぁ、仕事しながら聞くにはいいかもね。――素雪、あんたの職場は、何か音楽かかってるの?」

「いいや、特には」

 素雪は正直に答えた。

「個人的に、音楽が好きな奴もいるがな。……時間だ。もう行くよ」

「気を付けなさい」

「頑張れよ」

「じゃあねぇー」

 三人三色の言葉を背に、素雪は教室を出た。

 ここからは、高校生ではなく自衛隊員だ。

 

 

 

 

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