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2017年 12月20日
室内に響く銃声は、けっして不思議なものではなかった。その部屋は常に銃声に満ちていた。
とはいえ、別にそこは内戦に明け暮れる治安の悪い国家の半壊した都市部にあるわけではない。
そこは東京都内であった。もちろん、今だ完全に戦後復興が成っていないとはいえ、東京は内戦に明け暮れてなどいない。
座間駐屯地屋内射撃練習場、それがその部屋の名前だった。
「……まぁ、こんなものだろう。必要充分だよ」
素雪・ヴァレンシュタインは、弾痕が残る二十五メートル先の標的を見ながらそう言った。彼は銃を握っていない。彼の今の立場は教官だった。
だから彼の隣には、銃を持った少女の姿があった。
その少女は自衛隊の制服を着ていた。階級は准尉――外国の士官候補生に相当する。自衛隊で、この階級が与えられる人間は二種類。曹長から幹部教育を受けて幹部に上がる者――旧軍で言う特務士官――か、防衛大学校、防衛大学校付属高等学校、防衛幼年学校などの士官学校的施設で教育を受けている者かの二種である。
この二つは、だいたい年齢で識別できた。曹士を経て幹部になれるようなものはたいてい二十歳は超えているのに対し、防衛大学校とその付属施設を出たような人物はたいていが十代から二十代だからである。
それで考えれば、少女はまず間違いなく後者であった。彼女の外見は、十代半ばに見えたから。
ユディエル・セラフィア・フォン・キルシェスサロン、それが彼女の名前だった。彼女の髪はアッシュ・ブロンドで、肩に掛かるほどの長さ。瞳の色は赤色だった。しかし彼女は、日本国籍を持ち、日本で育った日本人だった。
法律が変更され、例えば日本に帰化する際、カタカナ、平仮名もしくは日本読みの常用漢字で表記可能ならいかなる名前でも名付け可能とされた為、彼女の名前は日本人としては不思議ではない。
ただし、彼女が生まれた時から持っていた名前は“ユディエル”のみだった。他のものは、孤児院から与えられたものだった。
日本には“桜会”という名の孤児院がある。国際孤児院の登録を受けた最初の孤児院で、この孤児院を出た者は、孤児院の推薦があれば、日本国籍を得ることが出来た。孤児院で行われる教育は無論、日本語で行われた(英語も併用されたが)。
そして桜会は、優秀な人材を輩出することで有名だった。
ユディエルは七年前、この孤児院へやってきた。二〇一〇年、孤児院が出来た年だった。彼女の正確な年齢は誰も知らない。彼女は二〇〇九年、ポーランドで拾われたが、彼女が話していたのはドイツ語だった。その時彼女は、七歳前後だったという。だが、昔の記憶は覚えていなかった。よっぽどショックなことがあったのだろう、と医者は言った。幼い子供には耐えられないくらいの、と。
その次の年、二〇〇八年、日本にとっての終戦の年に作られた国際援助法(外国の難民を制限付きで受け入れする、という類の法律)に法り、日本は十歳以下の孤児十万人の受け入れを決定した。里親と、孤児院の当てがついたからだった(この受け入れは、今でも行われている)。
ポーランド、ルーマニアなどの東欧諸国から半数、その他の地域から半数、日本に子供たちがやってきた。ユディエルも、その中に入っていた。戦闘が激しかった東欧諸国では、孤児院が飽和状態になっていたからだった。
ユディエルが入ったのは桜会だった。彼女はそこで七年間過ごした。
桜会の教育は、皮肉でなく、優秀なことで知られている。ユディエルは、桜会の中でも優秀な方だった。
通常、桜会で十五歳になるまで教育を受ければ、成績に応じて日本国籍を得ることが出来た。大抵の者が日本国籍を得ていた。ユディエルも例外ではなかった。
桜会を卒院した者は、もう日本人だ。就職するにせよ進学するにせよ、桜会が支援する。進学する者が多いが、就職する者もいないではない。今の日本では、生粋の日本人でもそういうものも珍しくはない。ユディエルもそっちに入る。
しかし彼女の場合、他のそうした者とは性質が違った。
防衛省情報本部には、“探し屋”と呼ばれる組織があった。情報関係ならず、自衛隊のあらゆる専門分野に特化した人間を探し出し、ピックアップし、自衛隊に勧誘するのだ。場合によっては、多少強引な手段すら使うことを許された組織だった。
ユディエルはそれにマークされていた。
彼女自身は、別に何の志望もあるわけではなかったので、彼女の自衛隊への勧誘はスムーズに進んだ。桜会の上層部に話を通し、自衛隊の情報本部の何でもないような役職を名乗った自衛隊員二人がユディエルに会い、自衛隊へ来ないか、立場は約束するぞ、と誘っただけだった。
ユディエルは、立場にもお金にも興味は無かった。が、進学しても就職しても同じようなものだろうと考え、では少しでも自分を必要としている所に行こうと思った。
自衛隊に来たのはそういう理由だった。
“探し屋”の人物眼は確かだった。
自衛隊に入隊したユディエルは、一年間の基礎教育の時点で、既にその才能をありありと発揮した。彼女は子供と呼び得る年齢だったが、二十代前後の男たちと同様の運動能力を示し、最終的にはそれら以上の成績を残した。
その後、彼女は情報収集団へと移動となった。そもそもそのためにスカウトされたのだった。
そして、現在准尉階級として訓練中だ。
「ハイ」
ユディエルは拳銃を構えたまま頷いた。ドイツ製。素雪が選んだものだった。身長一五二センチそこそこの彼女の手には、それがピッタリだった。
拳銃は、遊低が後退しきった位置で止まっていた。七発入る弾倉(マガジン)は空になっていた。
ユディエルは弾倉を取り出し、新しい弾倉と取り替えてから、スライドストップを外し、机の上に置いた。素雪の方を向き直る。
ユディエルは小柄だ。素雪は彼女と向き合い、改めてそう思い直した。身長もそうだが、線が細い。腕など、よくこの腕で銃が撃てるなと驚くほど細い。東洋人ならばそれでも判るが、西洋人としては珍しいタイプだ。
ただ西洋人といっても、何人かまでは判らない。アッシュブロンドに赤い眼、白い肌。少し色素が抜けているとしか思えない。ドイツ語と日本語と英語に堪能だが、それで人種は特定できない。ドイツ人かオーストリア人かもしれないが、発見されたのはポーランドだ。日本語と英語は桜会で身につけたものだ。
顔の作りは良い。美人というより可愛いという部類に入る。年齢相応のあどけなさというものだろう。もちろん、人を殺したことなどないだろう。当然だが。
いや、だが。素雪は思い直した。人を殺される場面は、見ているのだろう。覚えていなくとも。何せ彼女が発見されたのは、ポーランドだ。全土が戦火に包まれたあの地獄の土地だ。
素雪は、自分の幼少時を思い出した。重機関銃と、小銃の銃声。パタパタと言う音は、伝統的に幅広なソヴィエト・ロシア製戦車の装軌が、石畳を叩く音だろう。全て克明に覚えている。
そして、AK47小銃の形、重量。いや、今思えばPKM小銃だろう。だが……当時はどうでも良いことだった。あのグリップの感触、引き金の重さ、間近で聞く銃声、発射の反動、そして、人間の内側の色……。
「……三尉?」
しばし物思いに耽っていた素雪は、ユディエルの呼びかけで気が付いた。
忸怩たる思い。教官が、生徒の前で自失するなんて……。
「い、いや。何でもない」
素雪は首を振りつつ、言った。
頭の中を強引に切り替える。
「よし、次はライフルでやろうか。今日は君の能力を確かめる訓練だからな」
「分かりました」
ユディエルは従順な態度で肯き、何のライフルを使いましょうか、と聞く。
「何が良い?」
「……すみません。データを見せていただけませんと、決断しかねます」
そうだろうな、と素雪は思った。答えは予想していた。ただ彼女を試しただけだった。が、素雪は、ユディエルの困ったような表情を見てどこか楽しんでいる自分も発見した。……俺は加虐趣味があったのか?
「だろうな。武器庫へ行こうか」
「ハイ」
ユディエルは全く素雪を信用した態度で頷く。素雪も頷き返すと、武器庫へ向かって歩き出した。当然、ユディエルもついてくる。素雪は自分の後ろを歩くユディエルをちらりと見て、言った。
「ユディエル、歩く時は常に今攻撃されたどう動くかを考えながら歩くんだ」
「あ、はい。了解しました」
ユディエルは頷くと、視線を左右に彷徨わせながら歩き出した。
「いや、周りを見るときは視界の端に留めるんだ。キョロキョロすると、怪しまれるばかりじゃなく、田舎者だと莫迦にされるぞ」
「あ……す、すいません」
少し赤面して頷くユディエルを見て、素雪は、デジャヴのようなものを感じた。何だったかな、この感じ。前に同じような反応を受けたような……。
ああ、そうか。素雪は思い出した。今年の春だった。
あれは、最初に霧島二佐に、当時三佐に会った時のことだ。
「三佐、歩く時は常に、今攻撃されたらどう動くかを考えておくべきです」
「は、はい。分かりました」
霧島未来華三佐はそう言うと、辺りをキョロキョロと見回しながら歩き始めた。俺は溜息を吐きたくなったのを何とか堪え、言う。
「霧島三佐……それでは余計に怪しまれます」
「あ……す、すいません」
霧島三佐はばつが悪そうな表情を赤面に浮かべた。
「いえ、かまいません。次回からは気を付けて下さい」
「わ、分かってます」
霧島三佐はムッとしたように言った。
「では、行きましょうか」
俺はそう言って、霧島三佐と共に歩き始める。位置はもちろん、三佐の斜め後方だ。敵が現れた時、いつでも引き倒せるように。
「悪いが、霧島三佐の護衛に就いてくれ」
ターネス一尉がそう言ったのは、二日前だった。
「かまいませんが、何故俺なんです?」
俺は言った。その時は、制服こそ着ていたが、別に正式な命令通知の形式を採っていなかったから、そういう軽口も許されたのだった。
「霧島三佐は重要人物だよ。我々にとって」
「そうでしょうね」俺は肯いた。
霧島三佐の話は聞いていた。川内一佐の下で働く、非常に有能な幕僚だと聞いていた。ある意味、第11連隊はあの人によって運用されているようなものなのだ、とも。川内三佐は交渉に熟達していたが、大規模部隊の(とは言え、第11連隊は人数的には、大隊以下の戦力しか持たないが)運用は、雑務の面で不得手としていたから。
「だが、彼女は三佐だ。余り大規模な護衛は付けられない。ならば、質を上げるしかないだろう」
「俺を買い被り過ぎでは?」
俺が訊くと、ターネス一尉は首を振った。
「お前だから任せられるんだ。お前は、戦地で護衛任務もこなしたことがあるだろう」
黙って首肯した。確かにそうだった。最初は一個小隊だった護衛部隊が、最終的に俺一人になってしまうほど激しい任務だった。
「それに彼女は……いや、なんでもない」
ターネス一尉は何か言いかけ、口を噤む。そして、とにかくだ、と切り出した。
「護衛任務はお前にやってもらう、ヴァレンシュタイン二曹。復唱」
「ヴァレンシュタイン二曹は霧島三佐の護衛任務に就くであります、ターネス三佐殿」
「宜しい」
ターネス三佐は満足げに頷くと、護衛任務の詳しい説明を始めた。