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2017年 12月20日
座間駐屯地の武器科が管理する武器庫には、他の駐屯地には無い種類の武器が大量に配備してある。実戦部隊での実験だとか、特殊部隊用の実戦テストだとか、そういう理由で、上層部の趣味人が購入しまくったという噂だった。
とはいえ、悪いことばかりでもない。
例えば今の素雪とユディエルのように、自分用の武器を探してみたりと。
「M16系統……M4なんかは使いやすいけど、既に旧式だ。89式改がオススメだな。ただ、AK47系の銃は世界各地にあるから、一応の使い方を覚えておいたほうが良い。14式は、多機能で威力は高いが、重いから扱いにくい」
「……では、89式改で練習をしましょうか」
「ああ、それが良い」
素雪は肯定して、壁一杯に掛けてある銃器の中から、89式小銃改2型を取った。89式の最新モデルで、自衛隊の全ての部隊で幅広く用いられている。初期型ならば空挺用だけだった折り畳み小銃がベーシックで付いており、グレネードランチャーやスコープも装着できる。アジア的な思想に従い、当然銃剣の装着も可能だった。
素雪はそれをユディエルに渡す。彼女はその意味を誤解しなかった。素雪の前で、素早く点検してみせる。マガジンは入っているが、中身は空だった。チェンバーも同様。銃口その他に歪みは見られない。一応、使える部類には入っていた。後は、武器科がどのくらい真面目に任務をこなしているかの世界だろう。
ユディエルは一通りの点検を終えた後、89式小銃で捧げ銃の姿勢をとる。素雪は頷いた。
「よし、いこうか。弾丸は向こうにある」
そう言って、素雪は歩き出す。ユディエルは姿勢を崩し、素雪の後に続いた。
クイックローダーでマガジンに三十発の弾を詰め(実戦では二、三発減らしたほうが、給弾不良を回避できる、と素雪は注意した)、そのマガジンを89式小銃にはめる。コッキング・レバーを引き、初弾をチェンバーに装填。いつでも撃てる状態だ。
「よし、やってみな」
素雪が言うと、ユディエルは頷き、銃を構える。的は一〇〇メートル先。第二次大戦以前の、草原なんかでの戦いであれば、近すぎる距離だろう。
だが現代では、軍隊が、歩兵同士が戦闘をする距離は、短くなりつつある。視界の悪いジャングルや山間部、市街地での戦闘を、兵士達が強要されるからだ。例外的に砂漠では、四〇〇メートルを越す距離での戦闘もありえるが、そんな場所では主力戦車が出張ったほうが、効率が良い。
そういうわけだから、今の軍隊――自衛隊で求められる能力は、如何に遠くの的に必中させるかよりも、突発的に出現した物体を、如何に素早く敵味方判別し、敵ならば照準を合わせ、トリガーを引き、戦闘能力を剥奪できるかにあった。例外は狙撃手だけだ。
もっとも素雪やユディエルのような特殊部隊員は、そのスナイパーとしての訓練も受ける必要があるのだが。
ユディエルは規範的な姿勢で銃を構え、照準を的の中心、黒点にあわせる。光学式でない昔ながらのアイアンサイトは、それなりに信頼性が高いものなのだ。人間が今だ鈍器を武器として使用するのと同様な理由だ。
ユディエルの射撃は見事なものだった。素雪が控えめに見ても、充分に射撃徽章が貰えるほどのものだった。セレクターをフルオートに入れ、指切り式で五、六発ずつ弾を送り出す。その全てが的に当たり、三割は黒い部分に、数発が中心部に命中していた。
たいしたものだ。素雪は内心で正直な賞賛を送った。この年で、しかも銃を持ってたった数年で、これだけの腕前を誇っているのだ。二十歳にも満たぬ(そういえば俺も十七くらいだったな)娘をして射撃の達人たらしめているものは何だ。才能に決まっている。天才、というものなのだろう。だが……。
「うん、良い感じだ」
素雪は素直な賞賛をユディエルに送った。ユディエルは銃口を下に向け、素雪の方を向き直り、ほんのりと嬉しそうな顔をして頷く。
「ありがとうございます」
「いや、もちろん本心だよ。君の銃の腕前は素晴らしい」
ユディエルは顔を赤くし、恥ずかしそうに俯く。だが素雪は見ていなかった。頭の中では、組み立てていた訓練プランを素早く再構築している。彼女の腕前は、想像以上だ。ならば、幾つかの訓練を前倒しできるな。
「よし、じゃあ、今日の実戦訓練はこれで終わりにしよう」
「あ、はい」
俯いて軽く自失していたユディエルは、慌てて頭を起こす。
「明日は、もっと実践的な射撃訓練をやるから」
「はい」
「じゃあ、いったん着替えてオフィスへ集合。別の、実戦でない訓練をしようか」
ユディエルは頷くと、敬礼をして更衣室へ走ってゆく。素雪はそれを見送った後、自分も男子更衣室へ急いだ。さっさとこの迷彩服を脱ぎ、シャワーを浴びて二種制服に着替えたかった。
「……で、撃った弾の数がここ。種類がここ」
「……あの……」
座間駐屯地のオフィスで、多くの自衛官たちがディスクワークに勤しむ中、素雪はユディエルに書類を渡し、それについての説明をしていた。
「うん?」
「銃を撃つたびに、こんな書類を?」
「ああ、いや……」
素雪はユディエルの困ったような視線に、少し迷ったような表情をした後、まぁ、と答えた。
「実際のところ、書かなくても良い……訳じゃないんだが、ああ、つまり……」
ユディエルは、素雪にしては珍しい歯切れの悪い、要領を得ない言葉を不思議に思ったが、次の言葉を待った。
「まぁ、適当に計算しても、怒る奴はいない」
「い、いいのですか? そんなことで?」
「……本当は駄目だ。が、誰も困らないので省略する」
「あの、武器科の方は?」
ユディエルは、駐屯地の装備品、消耗品の管理を行う職種の自衛官のことを言った。
「平気だよ。どうせ装備品・消耗品の持ち出し・追加はコンピュータで自動的に管理されてるんだから」
「……じゃあ、何故書類を?」
「前時代の名残、らしい」
理解しかねる顔をしたユディエルを見て、素雪も心中で全くの同意を示した。正直、素雪自身こんなもの全てコンピュータに任せ、書類仕事なんて無くせばいいと思っていた。英国帰りであるターネス三佐は、また別の考えがあるようだが。
「まぁ、仕方が無い」
結局素雪は、そんな言葉で納得させるしかなかった。
「そんなものですか……」
「そんなものだよ。組織とは書類で動くんだ」
ユディエルは小さく溜息を付き、ふと不思議そうな表情をして、
「じゃあ、何で私は書類を書いてるんですか?」
「まぁ、やり方は知っておいたほうがいいだろう。俺たちの仕事の七割はディスクワークだ」
「はぁ……」
溜息とも、納得とも付かない声を出すユディエルには答えず、素雪は周囲を見回した。
情報収集団に属する多くの自衛官が、大人しく机について仕事をしている。どんな場合でも三倍の――条件さえそろえば十倍の規模を持つテロリストとすら渡り合える彼らだが、机でパソコンと格闘をしている姿はどこかの中小企業の職員を思わせた。情け無い、と言うことも出来ないだろう。特殊部隊の仕事とは、正規部隊より余程充分な兵站の上でのみ成り立つのだ。
素雪はユディエルを見る。彼女は書類の作成という、日本国の(いや、世界中の大抵の国の)公務員ならば決して逃れることの出来ない運命とでも言うべき試練と戦っていた。
この程度の書類ならば、直ぐに終わるだろう。素雪はそう考え、持ってきた椅子に腰掛ける。そういや、自分も最初の頃は随分と文句を言ったもんだ、心の中で。素雪は思い出した。
ああそうだな、だからこそ、霧島二佐(当時は三佐だったか)の護衛任務は羽伸ばしのような感覚があったんだろうな。素雪は思い出した。とはいえ、まさかあそこまで大きな事件が起ころうとは思わなかったがな。
「三佐、護衛用のものは何かお持ちで?」
護衛開始から三日目の朝、霧島三佐を迎えに行った際、玄関で俺は訊いた。霧島三佐はパンプスを履いた後で、腕時計を付けていないことに気付き、それを取りに行かれた為、今玄関で腕時計を付けている最中だった。
ちなみに夜間の護衛は、別の者が担当していた。一人の人間を護衛対象に二十四時間貼り付けるのは不味いという判断の為だった。確かに体力が持たず、集中力が落ちる可能性がある。第一、たった一人で二十四時間護衛するなんて不可能なのだ。上層部も、そのあたりは理解してくれたようで、夜間護衛を付けてもらえることとなった。ただし彼(もしくは彼女)らは、警察庁から出張してきた人々なので、能力には疑問符を付けざるを得ない。
「護衛用のもの……ですか?」
「はい」
「拳銃とかナイフとか、そんなものですか?」
「ええ」
俺はいちいち頷きながら、霧島三佐の回答を待った。霧島三佐は少し考えた後で、
「ナイフだけ、ですね」
と、答えた。俺は少しだけいぶかしむ顔を作った。
「ナイフだけですか? 支給された拳銃などは?」
「あ、その、ごめんなさい。私の手にSIGは大きすぎて……」
霧島三佐の申し訳なさそうな言葉は尤もだった。現在自衛隊で使用されている正式拳銃SIG SAUER P220――9ミリ拳銃(常用漢字が改正され、“拳”の文字が使えるようになった)は、後に開発されたP226とは違い、シングルカラムマガジンで細身のグリップだが、それでもアメリカ人向けに四十五口径の弾も装填できるモデルと同じ太さな為、日本人の――特に女性の手にはやや大きいのだった。
ちなみに防衛省がこの問題を考慮し、幹部自衛官に支給する拳銃をSIG SAUER P226(9ミリ拳銃二型)とP239(9ミリ拳銃三型)に分けたのは、この事件の後の話だった。もっとも自分の手に拳銃が合わないと感じていた多くの幹部自衛官は、私財を投じて自ら自分に合う拳銃を買い求めていたのだが(それを許す法は、二〇〇八年に既に出来ている)。
「それにナイフも、小さな折りたたみナイフでしかありませんし……」
霧島三佐は続けた。要するに、自衛武器など皆無ということだろう。
「解りました。今は問題ありません。俺がいますから。でも、護衛期間が終わったら、何か買った方が良いと思いますよ」
俺は言った。上官に対する口調としては随分と失礼だったが、霧島三佐は怒った風ではなかった。ただ驚いたような顔をして、その後うっすらと顔を赤らめただけだった。
霧島三佐は腕時計を嵌める手も止めてしばらく呆然と……という風でもないが、ボーっとした後、初めて自分の行いに気付いたかのように慌てて腕時計を嵌め、行きましょうかと早口に言った。
俺はさっと外を確認し、危険が無いことを確かめると、霧島三佐を導いた。
公務は面倒くさいとしかいいようがない。射撃訓練と体術訓練(要するに体を動かすことだ)は毎日あるが、突入のような実践的な訓練は週一・月一程度しかない。それ以外は大抵が書類の作成だ。内容は、明らかに会計科の行うような書類――銃弾の補充確認とか、訓練日数の確認とか、給与の明細とか、トイレットペーパーの受取書とか……。
要するに、全くの雑務だった。出来たばかりといっていい特別師団第11連隊(当時)には、未だにこういう庶務の類を行う隊員が充分に入っていなかった為、自分たちでやらねばならないのだ。
とは言え、こんな作業を普通科の俺たちにやらせるのはどうかと思ったが……(もっとも、その日に俺が作成していた書類は、日頃の訓練の感想文のような物だった)。
「なぁ素雪……」
同僚の加藤哲也一曹が声をかけてくる。一曹というのは、諸外国で言う軍曹のことだ。俺の階級も同様。自衛隊の場合、士は一士、二士、士長しかなく、最後のは諸外国の上等兵に当たるため、兵長は四曹に相当する。
「何だ?」
「何で俺たちがこんなものを……」
「四回目」
哲也はうっとなる。こいつがこの台詞を言うのは、今日で四回目だったからだ。哲也は、詳しいことは知らないが、自衛隊に入る前は中東で実戦派の特殊部隊員を(おそらくイスラエルだろうと思う)していたらしく、体を動かさない仕事にぶつくさと文句を言うことが多い。
解らないでもないが……。
「諦めろ。今はまだ、仕事が無い。それに――」
俺はいったん言葉を切り、哲也の眼を見る。哲也は真剣な表情をした。
「俺たちの仕事なんて、無いほうがいいんじゃないのか?」
俺の言葉に、哲也は頷いた。
第11連隊の仕事は、国内外に対する不正規戦闘だ。要するに、爆破工作や暗殺など。アメリカで言えば、グリーンベレーでなくデルタフォースの任務だ。
ただし、頭が固いわりには流行や雰囲気に流されやすい防衛省の高官が、途中で現地住民の懐柔やテロリストの支援・訓練、潜入操作などの任務も取り入れよ、と無責任にも言い放った為、非常にややこしいことになっている。
こちらの任務は、先の喩えを持ち出すならばグリーンベレーの任務になる。グリーンベレーは中南米や東南アジア、中東などの敵対国家に潜入し、現地住民を懐柔、テロリストへ訓練を与え武器を給与する事が主な任務なのだ。いかにも直接的な暴力を得意とするデルタに比べ、非常に穏便、というか水面下の行動に思える(事実そういう理由で、グリーンベレーの連中はデルタを莫迦にしているらしい)。
が、効果は抜群だ。米国が敵視する国の多くは大抵が独裁国家であったり、国家経営が上手く行っていない国であったりするため、上層部に不満を持つ組織はいくらでもいる。そいつらをちょっと煽り、テロリストとしての訓練を施してやるだけで、その国は大ダメージを被り、場合によっては転覆してくれるのだ。
そういうわけだから、防衛省の方々(おそらく制服組ではない人たち)が俺たちの任務に潜入工作を追加したのは頷ける。事実中共などは、東南アジアやアフリカ、中南米や中東で活発にこの手の工作を行い、国家の共産化を図っている。アメリカもグリーンベレーを投入しまくり、赤い国々を転覆させようと躍起になっている。おかげで、中東やアフリカは常に内戦が絶えない。
ちなみに東南アジアは比較的安定している。日本企業が大量に工場を誘致した為、失業率が大幅に下がり、国民生活が向上し、必然的に政府への不満も少なくなり、治安が良好に成ったのだった。ただし、問題が無いわけではない。国自体が日本の経済的植民地になったようなものだったし、いやそれ自体は大した問題では無かったのだが、日本企業が生産体系を国内でのロボットを用いた生産にシフトしようとしていることで、国外の工場が大量に閉鎖されることが予想され、東南アジアに失業者が溢れると言われていた(これは東欧にも当てはまる)。
東欧や東南アジアの就業者のうち日本企業に就職している者は二十パーセントを超えるから(ちなみに、海外の企業に就職している者は五十パーセントを越える。うち、日本が一位でドイツ、アメリカ、英国と続く)、これは大問題といえる。中共もそこに目をつけて、現地でのテロリスト育成に掛かっている。先の、ヴェトナムでのテロ組織の件は、その先行投資とでもいえるだろう(中共特殊部隊の介入が確認されている)。
要するに、デルタとグリーンベレーを兼ね備えた特殊部隊――英国のSAS(というかSBS)のような特殊部隊を、防衛省は欲しているというわけである。そして、その発想自体は必ずしも間違っていない。
防衛省のお偉いさん方が勘定に入れていないのは、そういった特殊部隊を新造する際のコストだろう。言うまでもなく、暴力的な非正規戦闘任務と頭脳的な非正規戦闘任務の両方をこなす人間など、そう簡単に育成できるわけがない。両方とも、必要とされる能力が微妙に違うからだ。加えるならば、任務も違う。
現場――要するに特別師団長の紫尊将補(当時)は、これに反対した。もしそういう部隊を作れというならば、荒々しい戦闘任務は他の特殊部隊(*陸自、海自の特殊部隊のこと)に任せ、グリーンベレー式任務のみに焦点を当てた特殊部隊を作った方が、その任務の方向性も定まるし、良いのではないだろうか、と提案した。
全くの正論だった。少なくとも俺はそう思った。
が、防衛省は首を縦に振らなかった。そう言うならば、陸自や海自の特殊部隊もその指揮下に組み込んで、総合的な特殊部隊を、そう、なんていったか、ああそうだ、アメリカのSOCOMみたいな組織にしてしまえばいいじゃないか。んで、グリーンベレー式の特殊部隊も追加してくれたまえ。これならば、特殊部隊を統合的に運用できて良いだろう?
全くの思いつきのこの案だが、これは、今の情報収集団の元になったものだ。確かに特殊部隊の統合運用は、便利な側面を多く持つ。だが、各自衛隊の面子や、それぞれ適した状況などを考慮すれば、単純に統合というわけにも行かない。そういうわけだから、指揮下に組み込むという微妙な事態になったわけだ。
とは言え、全く問題が無いわけでもない。その最大の問題が、隊員のレベルがとてつもなく高いモノになってしまった事だ。……いや、別に自画自賛するわけでもないが、とにかく、隊員はかなりの技術レベルを、多くの分野にわたって持たなければならないのだ。おかげで常に人員不足ということになってしまった。
……近所に買い物に出かけてモスクワに行ってしまったような話になってしまったが、要するに俺たちの仕事は、二つ二大分されるわけだ。戦争を未然に防ぐ為の“工作”と、戦争が起こった後の“工作”だ。もちろんこの場で哲也が言ったのは後者の“工作”の方だ。
もっとも、この時俺たちは未だどちらの任務も行ってはいなかったのだが。
「まぁ、そうだがなぁ」
哲也は頭では理解しているが、という表情で言った。納得できる話だ。
「確かに実戦の方が面倒くさくは無いだろうが、死ぬ危険もあるんだぞ。いや、お前は自分が死ぬなんて考えないかもしれないが」
「……散々な言い様じゃないか……」
哲也は目を細めてジトッとした口調で言う。
「半年も付き合ってりゃ、人間なんてわかってくるさ」
俺はサラリと言い、それに、と続けた。
「俺だって時々そう考える。もちろん、銃弾に当たれば死んでしまうのだがな。まぁ、運の良いことに今まで一度も死んだことがないんだ」
「ふぅん。奇遇だ、俺もだよ」
哲也はニヤリとして言った。俺も、同様の表情を見せた(何故か哲也はつまらない奴だな、と感想を洩らしたが)。
「で、雑談をしている暇があるってことは、書類は出来たのか?」
「弾丸の請求書だからな。そんなに難しくはないさ。……はん、特殊部隊が書類で動くなんて、何とも情け無い話だな」
「自衛隊だって官僚組織で、近代的な政府の組織だ。なればこそ、書類との関係は切っても切れないんだよ」
俺は諦観したような発音で言った。実際、俺が傭兵であった時でさえ、書類仕事は存在したのだ。傭兵などとは比べ物にならないほど様々な制約に縛られた組織である自衛隊が書類の呪いから脱却できるわけが無い。戦車も、戦闘機も、アームスーツも、人間でさえも、軍隊での燃料は書類なのだ(いや、英国に限っては紅茶だそうだが)。
「まぁ、だが……」
俺はそこまで言って、切り出した。哲也は興味深そうにこちらを向き直した。今考えれば、俺はこの時とんでもないことを言ったものだ。まぁ、後の祭りだが。
「確かにちょっとくらい、ごたごたが起きた方が楽しそうだよな……」
「行きましょうか、霧島三佐」
「はい」
俺は仕事を終え、幕僚室まで霧島三佐を迎えに行った。彼女は椅子に座り、ノートパソコンに向かっていた。幕僚室は三十人ほど入ることが出来る、学校の一般教室のような大きさの部屋だ。ただし机は結構大きく、隣との仕切りが付いている。ディスクトップパソコンも置いてあり、それなりの広さを持つ。上等な机といえる。
俺も霧島三佐も、自衛隊の制服ではなかった。既に更衣室で着替えてきた。俺は、動きやすいタイトなジーンズに長袖の白いシャツ、上から黒いジャケットを着ている。霧島三佐は、朝来ていたブラウスにパンツだ。
「あ……すみません。仕事中でしたか」
「ああ、いえ。ごめんなさい、違います。これは……」
霧島三佐はそう言うと、少しだけ体を傾けた。ノートパソコンのディスプレイが見えるようになった。インターネットブラウザが立ち上がっている。サイトは……何かの、出版社のウェブサイトのようだ。
「私用です」霧島三佐は言った。
……つまり公用でなかったから、律儀に自分の(政府から与えられた)ノートパソコンで暇を潰していたわけだ。真面目な人だ。俺や哲也なら、高性能なディスクトップパソコンでゲームでもやってるだろう。
「いえ、こちらこそすみません。待たせてしまいました」
「そんなに待ってませんから、大丈夫ですよ。さて、行きましょうか」
「はい」
俺はラフな敬礼をする。霧島三佐は鞄を取り、中に市販品より二十パーセントは軽い、しかしメモリーとハードディスクの容量は数倍のノートパソコンをクッションの入ったケースに入れ、続いて鞄に入れる。元来丈夫な自衛太陽ノートパソコンだが、クッションに入れれば安全性はさらに高まる。事実俺も、クッションに入れて持ち歩いている(もっとも俺の場合、入れたままでパソコンが使用出来るクッションを使用しているが)。
「では、帰りましょうか。……と言いたいところなんですけど――」
「何か?」
霧島三佐がいったん言葉を切ったので、俺は訊いた。だいたいの想像は付いていた。
「ええ、機密度の高い書類を防衛省まで届けなければならないのですよ」
市ヶ谷にある防衛省を出たのは、もう二十二時になろうかという時刻だった。外は暗闇。街灯がなければ、二、三歩先は何も見えない状態だ。言うまでもなく、こういう状況では危険というほか無い。
「さて、書類も渡したことですし、今度こそ帰りましょう」
霧島三佐は楽しそうに言う。気持ちは解らないでもない。それどころか良く理解できる。わざわざ情報本部の本部長へ手渡しで渡すような書類が、楽しい物だとは思えないからだ。それも、こんな時期に。
「ええ、そうしましょうか」
俺は言うと、市ヶ谷駅の方へ歩いてゆく霧島三佐へついて行く。
市ヶ谷から中央線、山手線を乗り継いで東京駅へ。そこから東海道線に乗って神奈川県まで行き、横浜を過ぎて家に帰る、という予定だった。俺が、不信な人間に気付くまでは。
いるな。俺は思った。電車内に、明らかに不審なスラヴ人が三人、黄色人種だが日本人ではなさそうな男が二人。全員がゆったりとしたコートかジャケットを着ていて、四人は右肩が、一人は左肩がやや下がっている。武装している物腰だ。コートの下は拳銃か。
『新橋ぃ、新橋ぃ』
アナウンスが響き渡る。山手線は、この時間でも人が多いが、ラッシュ時ほどの人ごみではない。が、人はいるのだ。まさかいきなり銃を抜くことは……。
「っ……、き、霧島三佐。降りますよ」
「え……? ああ、ちょっと!」
俺は素早く霧島三佐の手を引くと、新橋駅に降りた。敵が――俺はあの五人をそうだと断定した――懐に手を入れたからだ。一人、二人ならば煙草か何かと思えたが、流石に五人同時はおかしすぎた。
俺の予想は中ったようだった。俺たちが電車を降りると、五人は慌てふためいて続こうとした……が、電車のドアは無常にも閉まっていった。
とは言え、安心は出来ない。まさか敵がこんな阿呆なことをするとは思えないからだ。おそらく……。
「ちょ、素雪さん、どうしたんです!?」
霧島三佐が驚いたように言った。当然だろう。
俺は掻い摘んで理由を説明した。霧島三佐は青褪めた顔でそれを聞く。
「そ、それじゃあ、これは罠なんじゃないですか?」
「そうですよ。ですが、あのまま乗っていても結果は同じです。ならば。今逃げた方がまだ何とかなる可能性はあるでしょう。虎穴にいらずんば、ですよ」
「で、ですが……」
霧島三佐が何か言いかける前に、俺は視界の端に不審な人物を捕らえた。やはりスラヴ系と、もう一人はアングロサクソンかゲルマン系。両者とも武装している。
「話は後です。付いて来て下さい」
俺は霧島三佐を連れて早歩きをする。もっとも、霧島三佐はほとんど走っているような状態だ。改札を出て、向こう側の、ゆりかもめの駅まで走る。狙撃手がいないとも限らないからだ。
ピシュ、という、コンクリートに何かがめり込むような音が響いたのはその時だった。
「霧島三佐、走ってください。階段の内側まで!」
俺は霧島三佐にそう言うと、後ろを振り向いた。数人の人間しかいない駅の中で、先俺は妖しいと思っていた男たちが、こちらに手を向けていた。もちろん手には、黒々とした銃が握られている。銃声が無いところから、銃声抑制器を装着しているのだろう。
「くそ」
俺は毒づき、ジャケットの内側から拳銃を取り出す。正式採用品ではないがサプレッサーを装着している(そもそも自衛隊の装備にサプレッサーは無い)。簡単に狙いを付け、二発放った。手に九ミリの反動。命中はしない。流石にこの位置から、走りながらは無茶だった。
ただし、本来の目的は――敵の頭を下げさせることだけは成功した。敵は驚き、柱の影に身を潜める。
もちろん、驚いているのは敵だけではない。少ないながら、駅内にいた人々も驚きを露にしている。が、訓練された軍人ではないので、素早く伏せたり物陰に隠れたりする者はいない。一瞬置いてから、絹を引き裂くような叫び声。ちくしょう、明日の新聞のトップはヤクザの抗争か?
俺は銃弾が飛んでこない僅かな間に、霧島三佐のいる階段の影に飛び込む。
「あ、あの……素雪さん……」
「敵です、霧島三佐。逃げましょう。この辺りを適当に一周しながら敵を撒き、再びここへ戻ります。そしたら、電車へ。ただし一直線には帰れませんから」
そう言いながら俺は、ポケットから出した鏡を使い、階段の端から向こう側の様子を覗き見る。敵が二人、こっちへやってきている。急な作戦だったのか、敵の数はそれだけだった。
「え、ええ。いいですけど。あの……この上へ逃げるのは?」
そう言って、霧島三佐は階段の上のほうを指した。ゆりかもめへ繋がる道だ。最近路線が増えているから、深夜でも動いている。ただし、利用者は多くない。
「最終的にはこっちに行くことになるかもしれませんが……直ぐにはダメです。上に敵がいないことは先程確認しましたが(三佐をここへ逃がす時です)、後ろにはいます。それも、我々がここへ隠れるのを見ていた敵が」
俺は簡潔に説明し、拳銃の残弾を確かめる。九ミリパラベラム弾が残り十一発。SIG SAUER P228は、精度の良さは気に入っているが、やはり九ミリしか使えないのはやや心ともない。最悪の場合、壁が抜けないからだ。徹甲弾もあるが、やはりFNの五・七ミリや北崎/ミネベアの五・五ミリには威力で負ける。
だがまぁ、そんなことを愚痴っても仕方が無い。俺はその銃を外に向け、いい加減な照準を付けると、引き金を引いた。十発発射する。一般人が先ので全員逃げ出したのはラッキーだった。そして警察が来たとしても、自衛官である俺と霧島三佐は何とでも言える。防衛省と内務省は仲が悪い? 両方とも国外の組織に対してはもっと険悪だ。敵の敵は味方、だろう。もちろん、これも甘い考えの一種ではあるが。
敵が怯むのが見えた。運の良いことに、やってきていた男のうちの一人――スラヴ系以外の白人の方は足に被弾したらしい。前に倒れる。それを見て、残った男も仰け反る。もちろん俺は、こんな好機を逃さない。
「三佐、走って!」
俺は手を引き、霧島三佐を強引に立たせると、先から何度もしているように、手を引いては知った。スラヴ系の男がこっちに拳銃を向けようとする。はっきりと形が見えた。中国製のサプレッサー内蔵拳銃だ。何とか式手槍とか言うんじゃなかったかな? ナム戦の頃からある、極めて小音声の高い拳銃だったはずだ。ライフル弾を切り詰めたような専用弾を使用する。
とにかく厄介だった。もっとも、発射できなければ意味が無い。
俺はその男が構える前に、既に拳銃を男の方へ向けていた。プシュ、というかキシュ、というか、とにかくそういう感じの間の抜けたような音が響く。俺が発砲したのだった。やはり命中しない。弁解するようだが、距離や射撃状態を考えれば、命中するわけがないのだ。……まぁ、ユディエルならば命中させてしまいそうなのだが。
だが、男は怯む。例え神のみぞ知る確立で命中するのだとしても、自分の方に弾が飛んできてまともでいられる奴はいない。戦場で機関銃が大活躍する理由だ。状況にもよるが、おそらくあれの命中率は一パーセントを切るだろう。
俺と霧島三佐は走り、街角を曲がった。狭い路地に入り、直ぐに曲がる。林立する背の低いビルの間を縫うように走る。道はわからない、が、歩数や曲がり角の角度などから大体の位置は推測できる。再び駅に戻るのも無茶ではない。
俺は霧島三佐の手を引きつつ、計画を考える。電車に乗れるか……? いや、どうしても、だ。場合によっては全然別の方向に行くのも已む無し、だからな。