2017年 1220

 

 

 会議の内容はさらに熾烈を極めていた。……悪い方に。

 

 

「だいたいあんたらが戦前にいい加減なことをしたから!」

「なにおぅ! あの時防衛職についていなかった貴様ら若造が何を言うか!」

「それを言うなら、今の状況にだって矛盾が……」

 霧島は既に聞いてはいなかった。そんなことより、あのときのことを思い出していた方がまだ楽しかった。恐怖ではあったが、同時に、今となっては楽しい思い出……といっても過言ではなかった。

 もちろん、現実逃避であることもわかっていた。彼女はそんなに頭が悪くは無い。

 だが、それでも、今のくだらない状況を打破するのには幻想も必要だった。それを理解していた。全くの自衛的攻撃というほかない。

 

 

 二日間、護衛は何事もなく続いていた。

 最初の日に大失敗して以来、私は素雪さんとの会話を慎重に、しかし積極的に行うようになっていた。気分がほぐれていたほうが、彼も護衛がしやすいだろうと、考えていた。

 三日目、迎えに来てくれた素雪さんとまるでこ、こ、恋人同士のような会話を交わした後、電車に乗り、防衛省の情報本部へ書類を届けに行った。大切な書類だった。第11連隊が独自に収拾した、日本に潜伏中の工作員の情報だった。

 書類は無事受理された。私は受理の印を貰い、秘匿回線で川内一尉へ連絡をし、この日の全ての任務を完了した。既に十時。外はすっかり暗くなっていた。私は素雪さんに謝り、共に電車に乗った。後は帰るだけだった。

 事件が起きたのはこの時。新橋に着いたとき、素雪さんが急に手を引き、電車から駆け降りた。私も成り行きで降りざるを得なかった。私は驚いて、素雪さんに訊いた。

「どうしたんですか!?」

 素雪さんは簡潔に答えた。敵だ、と。私は青ざめた。

 その後直ぐに銃撃戦が起こり、私と素雪さんはその場から逃げ出した。一般人には被害はなかったようだけど、情報隠匿は出来ないと思った。事実、次の朝の新聞には暴力団の抗争として載ってしまった。それが精一杯の情報操作らしい(直ぐに暴力団から二人ほど逮捕者が出て、事件は解決した。もちろんその直後、二人は釈放された)。

 私たちは駅の周りを一周して、元の場所に帰ってきた。敵は上手く撒けていた……と思う。

 

 駅の入り口付近で周囲を警戒しながら、素雪さんはぼそりと言った。

「……駅のホーム内に一人、いましたね」

「じゃ、じゃあ帰れないのでは?」

 私が間抜けなことを訊くと、素雪さんは頷き、そうですねと言った。

「ですが、ここからは離れないと。出来るだけ遠くに。徒歩は……好ましくありません。しかし電車も使えない……」

 素雪さんは人差し指と親指を額にやって、考える仕草をする。そうしながらも、周囲に視線を配るのには余念が無い。熟考と警戒を同時に行えるらしい。

 しばらくして素雪さんは、私たちが隠れている階段の上を見上げた。

「……この上、確かゆりかもめの駅でしたね」

「……え? ええ、そうですけど」

 私は頷いた。未だ一度も乗ったことがないけど、確かゴムタイヤを使った全自動式の交通機関だったはずだ。後から調べてみたところ、他にもいろいろと特徴があるらしい。静かだとか、小型だとか。

「素雪さんは、ゆりかもめに乗ったことがあるんですか?」

 私が訊くと、素雪さんはますます難しい顔をして、

「ええ、去年の冬に。ドイツ人の傭兵仲間に連れられて……」

 素雪さんはそこまで言って、黙った。何か言いにくいことがあるらしい。それともただ、話の内容が形容し難いだけか……。

「いえ、とにかく乗ったことはあります。……解りました。これにしましょう。銀座線も浅草線もありますが……どうでしょう。しかし、都心へ向かうのは危険ですね」

 要するに、裏を掻くらしい。銀座線や浅草線は人通りが多く、紛れやすいが敵も忍び込みやすい。しかしゆりかもめはこの時間になると人が少なくなるので、相手はこちらを見つけやすいが、こちらも相手を見つけやすい。どちらがいいかは微妙なところだ。普通ならばまず人の多いところに行きそうなものだが、人前でも平気で発砲するような敵が相手ならば、そうも言っていられない。もうしばらくここで待機して警察が駆けつけるのを待つと言う手もあったのですが、日本警察の能力からしてあれだけ時間があれば既に所轄の部隊が到着していても不思議ではありませんでしたから、何かの妨害を受けていたと考えるのが普通でした。

 素雪さんは上を確認する。誰もいないらしく、小さく頷くと、昇り始めた。

 階段を何度か上り、しばらく歩き、切符を買い、注意深くホームに出てから、素雪さんは言った。

「……敵は、人員が足りないらしいですね。ここにはいません。このまま逃げましょう」

「逃げましょう、って……。何処までです?」

 私が訊くと、素雪さんは時刻表をちらりと見て、

「有明までです。車内で、無線で応援を頼みます。盗聴の危険がありますから使いませんでしたが、乗ってしまえばこっちのものです。座間と電車の速度を考えて、テレコムセンターのあたりで頼みましょう。有明で合流できるはずです」

 と言った。私は頷く。その直後に、ゆりかもめが来た。

「乗りましょう」

 素雪さんは言う。私はそれに従った。

 

 

 広島にあるアストラムラインには乗ったことがあったが、ゆりかもめはそれに似ていた。ゴムタイヤ、専用軌道、少ない騒音、そして環境対策など、現代の輸送手段に必要な条件を兼ね備えている。もっとも、費用対効果はどうか知らないけれど。

 私たちが座ったのは二人掛けの席だった。狙撃を避けるため、素雪さんが窓側、私が通路側。ただし、駅に着くたびに席を立つ。敵が乗り込んできたら危険だからだ。

 素雪さんはゆりかもめへ乗り込むなり、周囲に気を遣いながら拳銃を取り出した。ジャケットの下のホルスターから大型の自動拳銃――SIG SAUER P228だった――を、右足首に括りつけてあるホルスターから小型の回転弾倉式拳銃(こっちはミネベア/ナンブM8でした)を。その内、後者には三十八スペシャルを五発きっちり装填してあって、前者は当然、弾倉内に僅かな九ミリパラベラムしか残っていないようだった。

 素雪さんはナンブM8の方を膝の横の方に置き、シグの方の弾倉を抜いた。空の弾倉を弾薬用ポーチに収め、新たな弾倉を取り出す。それを銃に填める。

「……本当は、分解整備もやりたかったんですけどね」

 素雪さんは小さく言った。

「そうなんですか? しかし……」

「ええ、流石に今そんなことやってる暇はありません」

 残念そうに言うと、素雪さんは、何の願望の現われだろうか、ポケットからハンカチを取り出してシグを拭く。硝煙が染み付いていたのだろう、すぐに真っ黒になる。素雪さんは口の中で小さく、私に聞こえないようにシャイセ、と呟いて(聞こえましたけど)、ハンカチを畳んでポケットに入れた。

 テレコムセンターへ着いた。素雪さんはバッグから、少し大きめの携帯電話のようなものを取り出した。

「携帯式の遠距離通信機です」

「ええ。知っています。もう少し小さくなればいいんですけど……」

「俺は技術者じゃありませんが、多分どうにもなりませんよ、これは。とはいってもこれにしても、一応暗号化は出来ますが、あまり意味はないでしょう」

 そう言って、座間基地へ繋ぐ。こちら、ワン・ワン、マイク・ヴィクトリー。緊急事態、コード117進行中。至急応援を求む。場所は、ポイントT−23、AK。繰り返す、T−23、AK。

 応答は直ぐに帰ってきた。こちらIG。了解、直ちに応援を派遣する。場所はT−23、AK。到着予定時刻は二十四時十分。

 私は時刻表を思い出した。有明への到着時刻は二十三時五十五分。……十五分粘る必要がある。私はちらりと素雪さんを見た。彼は、無表情にそれを聞き、了解、と言って通信を切断した。私のほうを向く。

「通信が取れました。直ぐに来ますよ」

「有明で十五分間は粘る必要があるようですが……」

 霧島が心配そうに言うと、素雪は安心させるように言った。

「十五分くらい、どうにもなります。応援が到着することが分かっただけでも充分成果ですよ。後は、何も起こらぬように祈るだけです」

 私は少し驚いた。失礼かもしれないが、素雪さんが信心深い方には見えなかったからだ。というか、今まで私が見てきた兵士たちは、誰も彼も本当に神様を信じてはいなかった。イスラームの戦士すら。

「祈る……ですか?」

「そうです。仏陀、アッラー、ヤハウェ、何でもいいですから、祈ってみては? どれか一つくらいは、聞き届けてくれるかもしれませんよ」

 私はその言葉に、両目を細くした。

「何とも……信仰心に欠ける言葉ですね」

「俺は神道ですから。八百万の神がいます。仏陀もアッラーもヤハウェもその中の一つなんですよ」

 神を神とも思わぬ発言だった。しかし私は何とも日本人的な、と思っただけだった。私だって、神様なんて信じていなかった。

「それは……いえ、神道って良い宗教ですね」

「俺もそう思いますよ。日本に来てよかった」

 私は我慢できず、くすりと笑った。素雪さんも口元に笑みを浮かべてくれた。任務が始まって以来初めてかもしれない。

 安心してください、とでも言うような素雪さんは浮かべ、通路と扉の方向へ視線を向けた。見張っているのだろう。……もしかしたら、照れているのかも。

 そうだったら良いなぁ、と思いつつ、私は素雪さんに気を遣って(私の妄想かもしれませんが)通路を挟んだ反対側にある窓から外の風景を見た。漆黒の闇ばかりが広がる空とは対照的に、東京湾は美しく――というには派手過ぎるほどに輝いていた。

 車内に、アナウンスが流れる。

「さて、青海です。後二駅ですよ、三佐」

「ええ」

 素雪さんはそう言うと、開いたドアの方へ目を向けた。人が二人だけ入ってくる。素雪さんの眉が少しだけ動くのが見えた。何気なく、私を庇うような位置に体を移動させる。右手を私の前に出して、三本指を立て、横にしてみせる。

 私は思わず素雪さんの方を向き、何か言おうとした。が、素雪さんは右手を口の前に持って行き、人差し指を立てる。静かに、と言っている。

 三本指を横にして前に出すのは、先に決めておいた合図だった。意味は、敵がいる。エネミーの“E”の文字を模したものだった。

「出来るだけ、体を強張らせないで下さい。気付かれてしまいます」

 素雪さんが囁くように言う。私はそうしようとした……が、当然あまり上手く行かなかった。

 素雪さんは苦笑した。

「意識すれば、余計不自然になります。……普通にしていてください」

 優しい声でそう言う。私は頷き、先より幾らか安心した様子で、しかしどこかぎこちない様子で椅子に深く腰掛けた。息を吐く。唇が震えるのが解った。喋らなくて良かったと思った。喋れば、声も震えてしまうだろう。

「……もしかしたら、無線が解読されたのかも。ちくしょう……いえ、失礼」

 素雪さんは親指と人差し指を額に当て、考えるような仕草をする。直ぐに終わった。あっという間に考えを纏めたようだった。

 小さな声で、私に告げる。

「次の駅で……降ります」

「え? で、でも……」

 素雪さんは手で私を制する。

「ドアが閉まる直前に降ります。奴らは……ええ、多分降りれないでしょう。次の駅は……国際展示場正門、ですね。……」

「……? あ、あの、素雪さん?」

 素雪さんは、先とは違う何か考え込むような表情を見せる。何というか、昔のことを思い出しているような……。

「え? あ、いえ。ええ、それでですね。そこを降りたら、直ぐに再び連絡します、11連に。ビッグサイトは目立ちますから、それにヘリの降りる土地も充分ありますから、直ぐに連絡を取ります」

 それだけ言うと、素雪さんは今までと同じような無表情に戻った。ただし、気付かれぬように周囲に注意を向けているようだ。……実際のところよく解らないのです。私に解るようなあからさまな観察をするわけがないのだが、素雪さんの有能さから言えば間違いなく敵情を観察しているだろう、と言う予想にすぎない。

 とにかく、その時私は素雪さんに任せておけば大丈夫だろうと、素直にそう思えていました。何故そう思えたかは解りませんでしたが。

 

 

 アナウンスが国際展示場正門に到着したことを告げた。私は僅かに緊張してしまう。怖くなって、素雪さんの方を見る。素雪さんは、いたって普通の顔をして、しかしほんの少しだけ瞳を動かしてドアの方と、男たちの方を確認した。

 ドアが開いた。しばらく待つ。誰も降りない。駅にも誰もいない。素雪さんはいつもと変らないように見える。もちろんそんなことはないのだろうけども。

 閉まる直前になって、素雪さんは私の手を引いた。時間を正確に測っていたのだろう、絶妙なタイミングだった。そして、足手まといだったのだろう、私はほとんど素雪さんに抱えられるような体勢になってしまった。と言うか、抱きかかえられているというのが正しい。混乱したけども、何とか質問をする。

「素雪さん……」

「喋ると舌を噛みますよ」

 素雪さんはそれだけ言うと、閉まりかけたドアを潜った。私は横目に、青海で入ってきた二人を見た。慌てふためく、という表現がピッタリの慌てようだった。あからさまに混乱しているようだった。急いで追いかけようとするが、無情にも扉は閉まる。男たちはどうにかしようとするが、どうにもならない。完全無人制御のゆりかもめは、そのまま走り出してしまう。

 とはいえ、それ以上のことはわからなかった。電車はあっという間に、私の視界から消えてしまったからだ。

 素雪さんはさっさと駅の階段を下り、国際展示場――有明ビッグサイトと駅を結ぶ高架歩道の上に移動していた。私ももちろん同様だ。改札はほとんど飛び越えるようにして通り抜けていた。もちろん、切符を改札機に通しはしたけれど。

 その場で一旦、素雪さんは立ち止まる。必然的に私も立ち止まる。道は二方向に伸びていた。一方はビッグサイト、もう一方は駅。した道路に下りるのは、得策とは思えない。

 私は呼吸を整えた。とは言え、別に私が走ったわけでもないので、何故息が乱れているのかは解らなかったが。

「さて……」

 私よりもよっぽど運動していたはずなのに、私よりもよっぽど早く呼吸を整え終えた素雪さんはそう呟くと、無線機を取り出した。先ほどと同じ場所へ、素早く、似たような通信を終える。

「よし」誰ともなく呟く。

「三佐、応援を呼びました。もちろん、こちらへ。間も無く……おそらく十分かそこら待てば到着するでしょう」

「そうですか」

 私は答えた。冷静を装ったつもりだったが、どうしても安堵を含んだ声になってしまった。緊張が一気に解けたような気もする。

「敵の目的が何かは知りませんが、一番危険な車内からは脱出しました。急いで移動します」

「移動ですか? でも、後十分で……」

「ここから有明――駅ですよ?――まで二分。往復で四分。十分後に来るとしても、六分間奴等と睨み合うことになります。こんな場所では話になりません。敵は人気のある場所で、平気で発砲するようなやつらです。おそらく、本気で貴女を殺す気でいるでしょう。……何故かは知りませんが」

 素雪さんは知っているのだろうか、と私は思った。私が関わっている防諜作戦のことだ。潜入している敵工作員を虱潰しに調べ上げ、(こちら側にとって)役に立ちそうにない奴らを一斉に駆逐する、という作戦でした。実際に執行されれば、第11連隊(今の情報収集団)が投入される初の実戦になる予定でした。予定でした、というのはつまり、実際に執行されなかったということです。

「……。いえ。それより、敵と睨み合う、ですか。武装は……」

「拳銃一挺、だけですね。マガジンは都合四本。リボルバーの方は換え弾丸は用意しておりません」

「だ、大丈夫なんですか?」

「何とかしますよ」

 素雪さんは即答した。私はこの時、とても軽率な発言をしたと思います。素雪さんたちにとって、出来るかではなく、するのです。それを一番理解すべき立場だった私なのに……。

「さて、そろそろ行きましょうか。さっさと陣地を確保……!?」

 素雪さんは何か言いかけて、突然に私の手を引いた。私は素雪さんに倒れ掛かるような姿勢になる。

「きゃぁ」

 私は思わず声を上げた。が、素雪さんは私ではなく、そのはるか後ろを見ていた。一瞬遅れて、弾着音。高い音だった。間違いなく銃弾だったけれども、銃声は聞こえない。

「くそ、全ての駅が見張られていたのか……? そんな大人数で……いや、とにかく……」

 素雪さんはいつもどおり、私の手を引いて走り出す。直前に、後方に向けて拳銃を数発。少なくとも敵を多少怯ませる事は出来たでしょう。命中など期待するべくも無いでしょうけど。

 あっという間にビッグサイト前の道を走り抜ける。敵の攻撃はなかった。安心は出来ません、と素雪さんは言った。

 しばらく走っていると、渡り廊下、のような場所の入り口に着いた。鍵は閉まっていた。

「どう、します?」

「問題ありません」

 素雪さんはそう言うと、両開きにの大きな扉の鍵の部分に、銃弾を二発撃ち込む。鍵が壊れて、ドアが開いた。

「……こういうのって、警備会社とかが入ってるのでは?」

「警備員が来れば、それはそれでいいじゃないですか。いえ、確かにテロリストに攻撃される危険はありますが、次には警察が駆けつけます。別に泥棒するわけじゃないんですし」

 そういえばそうだった。私は恥じた。すっかり、逃げる目的を喪失していた。いえ、別に泥棒みたいな感覚だったわけじゃないんですけど……。いえ、しかしそれでも、警備員の人が死んでしまうのはあまりにも……。

 負のスパイラルに入ろうとする思考を、私は一旦停止させる。今は、逃げることを考えないといけない。

「で、ここに入るんですか?」

「行きますけど……。心配ですね。こんな風なガラス張りのやたらに長い廊下を走るのは不安です。しかしまぁ、下に逃げるよりいいでしょう」

 素雪さんはそう言うと、出来るだけジグザクに走るように言って、先に中に入った。私が入ると、素雪さんはドアを閉め、近くにある観葉植物を立掛けた。廊下をジグザグに走る。右に三歩、左に六歩、右に四歩、左に二歩。

「あ、あの、素雪、さん」

 走りながら、私は素雪さんに訊く。

「何ですか?」

 走りながらですら滑らかな発音で、素雪さんは返した。

「あの、あんな、観葉……あぁ!」

 パンプスで走っていたせいか、私は倒れかける。すかさず素雪さんが手を差し伸べ、助け起こす。

「す、すみません」

「いえ……っ!」

 素雪さんが突然、私を押し倒す。私が真っ赤になって混乱していると、ガラスの割れる音が響く。かすかながら着弾音。素雪さんは私の上に覆いかぶさる。だから、ガラスの破片が散っても、私にはかからなかった。

「レーザーポインター……敵は長射程小銃(ロングレンジライフル)ではありませんね。ということは、それなりに近距離か……走りますよ!」

 素雪さんは再び、私を抱えて走り出す。確かに、ただ私が走るよりもずっと速い。……どうせ運動不足ですよ。

 やはりジグザクで、あっという間に廊下の終わりにまでたどり着く。すぐさま鍵を破壊し、中に入り込むとドアの脇に隠れた。

「も、素雪さん、逃げないんですか?」

「今こっちに走ってきているのは一人です。敵はどうも素人臭いです。こんな追撃の時に単体行動なんて、まともな神経のやることじゃありません」

 何だか微妙に差別的な言葉を使いながら、素雪さんは簡潔に説明し、拳銃を構えた。私の方を向き、私の唇にピンと伸ばした人差し指を当てる。静かに、と言う合図らしいけれど……私は赤くなって、喋るどころではなかった。

 喧しい足音が聞こえてくる。直ぐに、ドアから敵が飛び込んできた。素雪さんは私たちを通り過ぎようとした敵の背中に向かって、二発発砲する。キシュ、という独特な発砲音と共に、敵の背中に二つの穴が開く。胸部と、腹部。敵は声一つ上げることなく、ばたりと斃れた。

 素雪さんは音と同時に素早く動き、敵の死体を自分の方に引きずる。床に赤い跡が付く。血がとくとくとあふれ出し、床に血の海を作り出す。私は先とは別の理由で、声を出すことが出来なくなった。鼻を衝く異臭は、消え逝く人の生命の最後の悲鳴のようにも感じられたし、何より私が人の死体を見たのは……初めてだったから。

 しかし、当然ながら素雪さんは死体など見ても眉一つ動かすことがなかった。それどころか、死体の持っていたライフルと拳銃を奪い取る。当然、チョッキの中からマガジンも。

「AK47……? いや、北製か……。くそ、ロシアや中共じゃないな……」

「北……?」

 私は素雪さんの言葉に引っかかるものがあった。北……つまり北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国。しかし、先ほどまで私たちを追い回していたのはロシアか中共だったはず。つまり……。

「それはつまり……先見張っていた男たちと、今攻撃してきている男たちは無関係だということですかね」

「どうでしょう? ……いえ、とりあえず逃げましょう」

 素雪さんはサッと扉の向こうを確認し、建物の奥の方へ逃げ出した。中には、吹き抜けの細長いホールのような場所が広がっていて、所々に階段がある。

 私は走りながら訊く。

「素雪さん、建物内の見取り図は……」

「大体分かります。安心してください」

 素雪さんは人を安心させる声で、走っているという行為を感じさせない発音で、そう答えた。私は素雪さんの方へ顔を向ける。ゲルマン人と日系人の血が混ざり合った肌は白人らしい白さと黄色人種らしい肌理の細かさを持ち、普通にしていれば幼い印象を受けるであろう横顔は精悍さを感じさせる。肌と髪、瞳の色からすれば小柄であろう体は、手に持つ拳銃や身に纏うジャケット、何より全身から発せられる雰囲気で、何よりも力強く見える。

 いや、実際に力強いのでしょう。今の私にとって、素雪さんほど力強い存在はいないのですから。今この場に於いても、その後も……。

 素雪さんの横顔に見とれていた私の心を、銃声が体へ引き戻した。体に魂が定着する前に、肩に衝撃。素雪さんが私を抱きかかえ、柱の影に飛び込んだのだった。

 今日ずっとそうであったように混乱していた私を安全な場所――とはいってもたかが知れていましたが――に寝かせると、素雪さんは先ほど奪った小銃を構え、敵が撃ってきた方向に向けて反撃した。

 二つの発砲音が重なる。同じ銃声に聞こえた。おそらく銃弾や銃の型が同じだからだろう。不思議なことではない。素雪さんが今もっている銃の元の持ち主を考えれば、当然のことだ。

 自衛隊の89式などとは違って三点バーストなど付いていようもないカラシニコフ(のコピー)を、素雪さんは指切り式で的確に射撃してゆく。銃の性能を知り尽くしているのか、銃口の跳ね上がりはほとんどなかった。排莢が落下し床とぶつかって立てる金属音が規則正しく響く。十数発撃った後、呻き声と、何か崩れ落ちるようなどさりという音。敵が倒れたらしい。

 素雪さんは素早く私のほうに向き直ると、私を抱き起こす。

「敵は一人でした。素人臭いですが、油断は禁物です。急いで奥へ逃げましょう」

 私は黙って頷いた。先の戦争で保有していた多くの優秀な特殊部隊員を失った北朝鮮は、国家の体裁を維持するための軍事力の大幅な縮小と相成り、まともな特殊部隊をほとんど保有していなかった。戦争で生き残った優秀な人間も、まず何より自国の防衛に使わねばならない状況で、他国へ潜入させるなどもってのほかだった。はっきり言ってリスクが高すぎる。

 例えば今後、私は素雪さんたちを他国――それも決して友好的とはいえない国家へ派遣しなければならないかもしれませんが、それは最終手段であって、軽々しく行って良いものではありません。川内さんも、紫将補も、それはよくよく理解されているはずです。

 例え北朝鮮と雖も、いえ、亡国の危機に瀕している北朝鮮だからこそ、それは重々承知しているはずなのです。

 そんな国家が私の命を狙ってきたと言うことは……さんざんカモフラージュしてきた“アレ”に感ずかれたということでしょうか? 

 私がそんなことを考えている間にも、素雪さんは周囲を油断なく見張っていた。敵が後ろにしかいないとは限らないからでしょう。手に持った拳銃は走っているにもかかわらずほとんどぶれていなくて、素雪さんが本当に優秀な変死なのだと感じさせてくれました。

 長い、両脇に大きな扉が幾つもある吹き抜けの廊下のような場所を走り、もう一方の端に来た。

「降ります」

「え? 直進しないんですか?」

「この先は……おそらく待ち伏せされているでしょう。奴らは上方から攻めてきているようですから。ですから裏をかき、下へ逃げます。下にも出口がありますから。駐車場方面でも、何処でも」

「大丈夫なんでしょうか?」

「ええ。上は狭いですが、出口も限られています。その点下は、広いですが、出口が多いです。それに……」

 素雪さんが言いかけたとき、私たちが入ってきた方とは反対側の通路から足音が聞こえた。素雪さんは直ぐに拳銃をそちらに向け、私にゆっくりと、階段を下るように指示した。私は言うことに従った。

 足音がだんだん大きくなる。素雪さんは通路の方向に銃口を向けたまま、私に続くように後退していた。階段に足を掛けつつ、体が階段に隠れるほどの位置まで下がる。そのまま伏せた。

 素雪さんの荒い息遣いが微かに聞こえてきた。普段ならありえないことだと思う。それだけ、切羽詰っていると言うことだろう。

 突然、恐怖が襲ってくる。足音が聞こえなくなった。恐怖が、私の体に備わるセンサーを、すべての感覚器官を麻痺させたからだった。

 

―――殺される……。ここで? いえ、殺されなくとも死ななければ。私の頭の中には多くの機密情報が……。

 

 唐突にそういう思いが頭を過ぎった。それが、そう遠くない未来の出来事かと思うと、恐怖を通り越してある種の達観を覚えてしまう。しかしだからといって、すべてに納得できるわけではない。死して尚何かをするには、私たちの魂は脆弱すぎる。肉体と言う弱々しくも猛々しい殻で覆っていなければ、何もできはしない。ゴーストはシェルをもってこその人間なのだ。

 まだ人間は、辞めたくないなぁ……。

 そういう思いも過ぎる。仕方の無いことだ、と自分を納得させる。他の人が私をどう評しようと、私は私であり、霊長類ヒト科のメスという分類を受けた生物でしかないのだ。

 私はすべての命令を拒否する、否命令系統がずたずたになった、敗戦直前の国家にも似た体を酷使し、何とか資格だけでも回復させると、素雪さんのほうを見た。救いが、欲しかった。

 視界の中に素雪さんの背中が入った途端、霧が晴れた思いがした。すべての不安が融解し、視界や、聴覚嗅覚すべてがクリアになった。暗いビッグサイト。素雪さんと、私の息遣い。同じく二人の汗のにおい。すべてが混ざり合い、私の脳を――(ゴースト)を刺激した。私は解した。

 素雪さんは、恐怖を感じながらも、為せる事を為そうとしている。彼の上官たる私が、こんなことで良い訳が無い。

 出来る事を、しよう。そう思った。体は再び私の手元に還ってきた。

 

 足音が一段と大きくなり、いったん止まった。次の瞬間、私の耳朶を打ったのは銃声だった。明らかに拳銃弾のものとわかるそれが、合計で三発。続くのは呻き声と、どさりと言う人が崩れ落ちる音と、素早く立ち上がる素雪さんの衣服の衣擦れの音。

「さぁ、下です。霧島三佐」

 素雪さんはいい、下に向かって駆ける。私も慌てて後を追った。上の階から、バタバタという足音が聞こえてきた。

 階段の一番下で待っていた素雪さんは、銃口を下に向けて銃を構え、私が下り切るのを待っている。待たせるのは悪いから……というか、明らかに敵が追いかけてきているので、私は急いだ。素雪さんの前を走りすぎると、

「こっちです」

 と言って、今日何度もやっているように私の手を取って走り出した。私はもう慣れてしまってもいいだろうに、一緒になって走りながら、顔を赤く染めてしまった。きっと走って熱くなっただけだと決め付けた。

 吹き抜けに成っている下階では、迂闊に動くと危険なので、直ぐに脇にあるホールへと飛び込んだ。そこならば、上から狙撃される心配も無いからだ。

「すごいですね」

 私は思わず呟いた。そのホールには、いろいろなテーブルやオブジェが所狭しと並んでいたからだ。

「明日、何かイベントがあるのでしょう。ここはそういうところです」

 さっさと歩きながら、素雪さんは言う。そして、ふと思い立ったように付け加えた。

「隠れる場所にはなりますが、多くは弾除けにはなりませんね。薄っぺら過ぎます」

 そして、私を近くのテーブルの影に誘導した。確かに、こんな場所を堂々と歩ける立場ではない。

「運がいいです。この場所は声が反響する。音を立てても、場所が特定しにくいでしょう。ゆっくりと歩いて、向こう側の端まで行きます」

「そこから、どうするんですか?」

 私が訊くと、素雪さんは少しだけ難しそうな顔をした。

「……貴女は逃がします。そして、俺は敵を殲滅します」

「危険です」

 私は失礼にならない程度に、控えめに言った。素雪さんも理解しているようだったが、それでも、言わずにはいられなかった。

「ええ、危険です。本来の任務で無いのも理解しています。しかし、敵のしつこさや、何かあるとしか思えない状況を考えると、ここで殲滅しておくのが妥当です。ここは環境が整っています。それに、敵に対して教訓を与えることも出来ます」

 素雪さんは淡々と語る。筋は通っていた。かなりの無茶をする気なのだろうが、彼の実力からいって、無理でもないのかもしれない。

 しかし、私というお荷物がいる状況で、それが出来るとも思えない。ならば……。

「……私を生かすために、敵を引き付けるつもりですか?」

 私が訊くと、素雪さんは少しだけ驚いたような表情をして、しかし首肯した。

「それが任務ですから。そして、自分は貴女の任務はこの場で生き残ることだと考えます。もちろん、敵に捕まったりしてはいけません。情報を、無事持ち帰るのです、霧島三佐」

 素雪さんは乾いた笑いとも取れないことも無い、自嘲気味な声で呟くようにそう言った。規則を破るような口調で言っているのは、死を覚悟する故なのか……。

「任務だから、ですか?」

「任務ですし、それに……」

 素雪さんはそこで言葉を切り、少し迷ったような表情をした後、私を正面から見据えた。

「俺は自分が師と仰ぐ人物から、助けた女性を殺すなと言われましたから」

 紅潮する頬も、驚きのあまり見開かれてしまった目も、既に私の意識の中にはなかった。意外、と言う思いはもちろんある。素雪さんの口から出る言葉とは思えなかったからだ。しかしその言葉は、今まで聞いた彼の言葉のどれよりも、真意を含んでいるように聞こえた。

 すべてが欺瞞と考えるには、あまりにもその言葉は真実味を含みすぎていた。決意をした漢の顔、と言ってもいいのかもしれなかった。私が以前見たことがあるそれにそっくりだったから。

「……死なないで、下さいよ」

「ええ」

 何の根拠があるのか、素雪さんはあっさりと答える。ただ私を安心させようとしただけかも。

「とにかく、行ってください。……すぐに追いつきますから」

 素雪さんはそう言う。顔は真剣そのもののだが、その言葉が本心かどうかは、ついには解らなかった。

 でも、正直、私にはどちらでもよかった。素雪さんの言葉が、ただ私だけに向けられていると解ったから。それも最後の一言は、任務としての言葉ではなく、彼自身の言葉だったから。

 私は素雪さんに向かって笑みを作った。上手く出来たかどうかは分からなかったが、確認する余裕なんてなかった。私は素雪さんに背中を向けて、中腰で、足音を立てないように慎重に走り出した。いえ、歩き出した。とても、走るなんて呼べるようなものではなかったから。

 歩き出してから数秒経って、後ろで銃弾の爆ぜる音が聞こえた。私は情けなくも、小さく悲鳴を上げてその場に立ち竦んでしまった。隣に素雪さんがいないだけでこれだけ恐怖を感じるとは、我ながら弱々しいことだと自身を叱咤した。もちろんそれで恐怖が消えるわけではないが、多少の気分転換にはなった。人によっては意味の無いことというかもしれない。私は否定できない。

 自らに活を入れ、再び歩き出す。銃声が続く。どさりという、人の倒れる音。私はびくりとした。だが、銃声は止まない。倒れたのは素雪さんではなく、敵方らしい。私は内心で安心した。人が死んだと言うのに、何とも暢気なことだ。基本的に殺人が許されていない日本でも、こういう気分になれるのかと、後で思い出すと驚いた。

 銃声の中で、拳銃弾の音が消えた。当然だろう。いくら素雪さんが大切に弾丸を使っても、そう長々と持たないのは明白だった。

 もちろん、敵は容赦をしない。手に持ったAK小銃を無闇やたらに……というには正確過ぎるかもしれないが、とにかく連射していた。

 三日間だけだったが、素雪さんの記憶が蘇る。考えてみれば素雪さんは、彼なりに精一杯の優しさを示してくれたのかも。いえ、そうに決まっている。そうだとしたら……そこまで考えて、私は直ぐそこに出口が迫っていることに気付いた。出口は開いていたが、私はそれについて安堵することは出来なかった。

 大型備品も搬入出来るように作られたのだろう、駐車場と直結した大型の出入り口には、男の姿が見えた。間違いなく、駅で見かけた男だった。

「あ……」

 思わず口から声が漏れた。二人の男は、私に黒い銃口を向けていたからだ。私の頭は、何故か冷静に状況を分析していた。あの銃はトカレフだからソ連だな、とか、二人の男は白人とアジア系だけど、良く見ると片方はスラヴ系でもう片方は中央アジアカザフスタンあたりの人種だな、とか、日本人かそれに近い人種で無いのは先の大戦で対日諜報の人員が払底したからだろうな、とか。

 今思えば、死に逝く人間の冷静さ、といえないことも無い状況だった。しかしながら、男二人の放つ殺気は本物だった。自分の頭の中の情報が欲しいならば、殺すことなどありえない。そう考えることが出来ないほどだった。

 呆然と立ち尽くす私に、男二人は悠然と近寄る。片方の男は後ろで銃を構え、もう片方が接近する。完璧なツーマンセルの動き方。後ろで素雪さんと戦闘を繰り広げている男たちとは格が違った。

 後ろの男たちは囮なのだろうか? それとも、ただ利用されただけなのだろうか? 前者だとすれば、北とソ連が手を組んだことになる。早急に手を打たないと。

 頭の片隅でそんなことを考えていた。状況を全く理解していない、と言う類の誹りを甘受すべき事態だった。

Is this(これか)?

 男のうち私に近づいてきた方が言った。後ろで待機している男は頷く。

 その言葉に、私はカッとなった。人を人とも思わぬ目……と表現すればいいのだろうか、とにかく、倫理や人道などと言う言葉とは程遠い言葉だった。

 別に、そういう考えが悪いわけでは無いと思う。例えば倫理、人道などと言う言葉は、私も概念こそ知っていれども、実際に見たことは一度も無い。その程度のものだ。

 しかし、目の前の男たちのそれはそういう次元を通り越しているような気がした。同じように人道を無視した行為でも、素雪さんが私を守るために行ったそれは、全く不快には思わなかった(殺人と言う行為に関する根本的な疑問とそこから発生する不安感は別として)。

 どうしてだろう、と考えて、男たちの動作を観察していると、それが分かった。

 必至ではないのだ。

 この二人は素雪さんのように、絶対的な目的や信念(素雪さんのそれが、私を護るということか仕事を達成するということかは判らないが)が無いのだ。だから、他のどんな行為も希薄に見えるし、不快がフィルターで濾し取られること無くふりかかってくるのだ。

 そんな相手に摑まるなんて、悔しすぎる……。

 我ながら子供のような理論だと思うけど、その時私はほとんど無意識の内に、ポケットの中に手を入れてナイフを摑み出していた。高価ではない、玩具のようなナイフ。しかし、その時だけは何よりも頼もしい存在だった。

「……!」

 二人の男が僅かに顔を強張らせる。しかし私がナイフを男たちの方向に向けるのを見て、安堵するような表情を見せた。ああ、そういうこと。私は心の中で呟くと、ナイフをへっぴり腰で相手のほうに構えるのを止め、背筋を伸ばし、ナイフの切っ先を自分の喉に当てた。

 私の予想は中った。男二人は、再び表情を固まらせた。

 つまりこの二人は、私の頭の中の情報が欲しいわけだ。私は理解した。何の情報が欲しいかも、想像が付く。おそらくあの情報――先ほど市ヶ谷で聞かされた情報に違いない。

 三人の間に、緊迫した時間が流れる。誰一人として動けない。私は頬に汗が伝うのを感じた。掌も汗で湿っている。最悪の場合に自刃すべきことは理解していたが、いざとなってみるとやはり怖い。

 そういえば、と唐突に、素雪さんのことが思い浮かんだ。彼はまだ無事だろうか? 彼の任務は私を守ることだったのだから、私が自決したら彼はどうなるのだろう? その場合でも、任務は失敗なのだろうか?

 そんなことを考えていたから、後ろの方の男が俄かに拳銃を下げ、

「分かった。だからナイフを下ろせ」

 と日本語で言った時、ふと腕から力を抜いてしまったのだろう。

 手前の男は私の決定的な隙を見逃さなかった。風のように一歩踏み出すと、右手で私のナイフを払う。アラミド繊維で出来た手袋をした手は、私のナイフを難なく弾き飛ばした。

「――あ!」

 と、私が声を上げたときは既に遅かった。ナイフを跳ね飛ばした男は、返す手で私の胸倉を摑み上げる。手間をかけさせるな。青い瞳がそう語っていた。怒気を孕んだ視線。どうやら無事に帰ることは出来そうに無い。

 悔しい。私は歯を食いしばった。首を締め付ける着衣の痛みに耐えるのは勿論、泣き出すなどと言う情けないことが起こらないようにでもあった。

 こんなことで捕まるくらいなら。私は目を瞑った。服が頸に食い込み、息苦しくなってくる。意識が飛びそうだった。口の中に何か突っ込まれる前に、舌を噛んでしまえば……。

 しかしその考えは、次の瞬間響いた激しい爆音で停止させられた。いや、それは正確には爆音でなく銃声だったのだが、先まで聞いていた銃声に比べてあまりにも大きく、連続していたので、私は爆音だと勘違いしたのだ。

Случилось(何が起こった)?

 私を摑んでいた男が怒声を上げ、後ろを振り返った。私も恐る恐る目を開けた。

 そこにあったのは、スプラッタと呼んで差し支えないものだった。そこには、かつて人間であったものがへばりついているのだった。赤く汚れたタンパク質の塊が床一面に飛び散り、鉄分を多く含む液体が池を作っていた。白く見えるのは脂肪なのか脳なのか。

 私を摑んでいる男は、呆然とした様子で固まっていた。私も同様だった。

 しばらくして、私の耳が元に戻ってきた頃、私は爆音がまだ続いていることに気付いた。先の爆音とは随分違うが、暴力的な響きはどこか似たところがあった。その音がターボシャフトエンジンの駆動音だと気付いたのは、それより少し後のことだった。

 がくりと、私の体が下がった。地面が揺らめき、迫ってくる。右肩に強い衝撃を感じ、次の瞬間には体中が痛んだ。男が私を取り落としたらしい。

 隣でも、どさりという音が聞こえた。私は朦朧とする頭でそちらを見る。私を摑んでいた男が、崩れ落ちていた。右肩を抑えている。左手の隙間から、どす黒い血が流れ落ちていた。狙撃、という言葉が私の頭を過ぎった。

「霧島三佐!」

 待ち望んでいた声が聞こえる。私は何の迷いも無く、そちらの方へ目を向けた。色の薄い肌に、金髪碧眼。ゲルマン人と日本人の中間ほどの体格をした、妙齢の――少年。素雪・ヴァレンシュタイン一曹。

 ヘリのローター音が一段と大きくなる。完全武装の二個小隊を積んだUH60JAブラックホーク輸送ヘリコプターが二機に、先ほど男をミンチへと変えた三十ミリチェーンガンを装備したAH64Dロングボウ・アパッチ攻撃ヘリコプターが一機、降下を開始していた。

 もっともその時私は、それを見てはいなかった。ただ素雪さんの腕の中で、気絶していただけだ。

 

 

 

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